加藤典洋の「敗戦後論」(講談社)を読んだ。憲法問題や戦死者の哀悼問題にあらわれる敗戦国特有の「ねじれ」と「自己分裂」をいかに克服するかという困難な課題の解決のために執拗(しつよう)に隘路(あいろ)を探ろうとした挙は壮としたい。だがいくつか疑問を感じる。
ひとつは、その解決の方向として、たとえば憲法の選び直しを通して古いナショナリズム(共同性)を解体させ、「私性」を通過した新しい「われわれ(公共性)」を立ち上げることが提唱されているが、この選び直されるべき憲法とは、はじめから「平和憲法」を意味しているように読める。それは本当の意味で「選び直し」といえるのか。
また、自国とアジアの戦死者の哀悼や謝罪の方法を創出する新たな歴史主体たるべき「わたし達(たち)」とはだれのことか。そもそもこうした「わたし達」というくくり方そのものが、同時代を生きつつある現在の日本人の世代体験や世代感覚の著しい差異に耐え得ないのではないか。歴史主体としての一般的条件や戦死者の哀悼のしかたを提示する前に、戦争責任や国家など私に関係ないという層の圧倒的な登場の事態をどう繰り込んで「われわれ」を立ち上げるのかという問題が先立つはずだ。
さらに、社会思想的課題として提起されたはずの問題が、読み進むにつれて「文学の使命とは何か」という著者の自家薬籠(やくろう)中のテーマにすり替わっているような印象も気にかかる。この文学論としての自問自答自体は力のこもった秀逸なものだが、はじめの問題への解答としてはあまりに茫洋(ぼうよう)たる感を免れない。