この本をただ「アメリカ人の立場から書かれた戦後日本知識人論」と紹介してしまうと、危険な先入観に支配される可能性がある。これはいわゆる「フジヤマ、サムライ」のような表層的なエキゾチシズムや『菊と刀』のような社会学的方法による異文化理解をモチーフとした本ではない。著者は55年から66年まで日本に住み、同時代の日本の知識人たちの思考が欧米文化と日本文化の接触がもたらす緊張という問題にかくも支配されているのはなぜかという問いに関心を集中した。
とり上げられた知識人は、江藤淳、竹内好、吉本隆明、鶴見俊輔の四人。この人選も心憎い。というのもここには、単純な親米保守主義者、民族主義者、進歩主義者、近代主義者、共産主義信奉者は1人もおらず、いずれも日本が敗戦によって陥った自己分裂の問題に、それぞれの強烈な個性に基づいて苦闘した闘士たちばかりだからだ。著者はこの四人を一種の「ナショナリスト」と考えている。その真意は「日本のナショナリティの意味、文化的特異性の意味の再定義、再構築」を真剣に考えた人たちという意味である。
結局、江藤は「偉大な過去」へ、竹内は「中国の民衆」へ、吉本は「大衆の自立」へ、鶴見は「造反の身ぶりと大衆文化研究」へ、それぞれロマンを求めていった。それは苦い挫折でもあったと著者は考える。そして彼は、この四人が、せっかくのすぐれた知性と個性を日本のナショナリティという限定された問題意識の解決のために濫費してしまったことを、深い愛情と共に残念がっていると思える。「もう少し広い視野への知の用い方があったのではないか、とはいえ、それもまた必然的なことかもしれない」というように。
時代は移り、私たちは冷戦の終結とモダンをくぐり抜けた地点に立っている。この本がいま、ある確実な共感の響きを伝えてくるというのも理由がある。私たちがすでに「あの時代」の外部に立っているという事実と、この著者が外部から戦後日本知識人のトラウマを見つめた視点とがシンクロするからなのだ。