「酒鬼薔薇」事件に対する反応を見ていて「文学的言語」と「非文学的言語」の深い断層という観念を抱かざるを得なかった。「懲役13年」と題する少年Aの作文には「自分のなかに魔物をひとたび自覚したものは止めようにも止められない。魔物の姿は怪物的ではなく、実際の徳の持ち主以上に完璧(かんぺき)な徳を体現しているように見える」という意味のことが、ボードレールばりの驚くべき悪魔主義的文体でつづられている。悪魔と神の恐ろしい振幅が自分のなかに宿っているらしいことに気づき、その異常性に自らおののいた文学的資質は、同時に止(や)みがたい残虐な幻想と衝動を言葉の世界に粘り強く昇華させてゆく道を見いだせないまま行動に走ってしまった。
一方この事件に反応した「マスコミ知識人」たちは、少数の例外を除いて「偏差値一点張りの受験教育では、命の大切さを教える徳育がないがしろにされている」などといった毎度おなじみのバカな言説を垂れ流しただけだった。「非文学的言語」の典型である。
「非文学的言語」は、ある個人の行為や感情や情緒の固有性を認めず、すべてを社会体制の機械的結果とみなす。「文学的言語」は、経験や幻想の固有性に固執しつつ、しかもなおその志向を、まだ見ぬ人間の普遍的な水脈を掘り当てる方向に向かって不断に用いようとする。固有な経験や幻想が「文学的言語」に到達する道をふさいでいるのは、バカな言説が「解釈」するように「命の大切さ」を教えない教育ではなく、まったく逆に、そうした非文学的な「解釈」の横行するいまの平板な言説空間そのものではないか。