ダイアナ元皇太子妃の事故死については、くわしいことを何も知らない。一部に陰謀説がささやかれているそうだが、もしそうならまず運転していたガードマンの「自殺行為」をどう位置付けるかがクリアされなければならない。どうもあまり説得力がない。
ここで言いたいのは、あれこれの事実関係ではなく、ヨーロッパの漠然たる歴史的風土についてである。
妃(きさき)になってからのダイアナの一生は、夫の不倫の露見、二人の不和、自らの不倫、離婚、大富豪との恋愛、事故死と、まるで仕組まれた急テンポのドラマを見せられていたような気がする。こんなことはたとえば日本の皇室では、およそ考えられるべくもない。
これは夫の不倫その他の不祥事が伝統ある英国王室の崩壊の予兆を示しているなどということではない。もちろん不倫など昔から宮廷社会の日常茶飯事だった。逆に「悲劇」がいまだに成立するということ、これこそが、ヨーロッパの伝統の一部なのではないか。
「悲劇」が成立するためには、社会の中に大きな落差の感覚が残存していることが必要である。それは、貧富の差のような経済的なものではなく、もっと精神的な何かだ。民衆にとっては「仰ぐもの」があるという感覚であり、貴族にとっては、気位とか誇りとか、要するに選ばれし者に特有の緊張の感覚である。それが遊蕩(ゆうとう)ぶりと矛盾しないのが貴族の貴族たるゆえんだ。翻って、いまの日本社会の平板さを見せつけられたような事件であった。