小浜逸郎ライブラリ 小浜逸郎の過去の評論を掲載


掲載紙:朝日新聞
(1997年9月6日付)

「なぜ日本人はかくも幼稚になったのか」
福田和也 著
角川春樹事務所 刊
正・1200円
続・1000円

書評 「なぜ日本人はかくも幼稚になったのか」正・続 福田和也 著

  その昔、辻(つじ)説法とか時事漫談とかいう芸域があった。あえて「ロクデナシ」の位置に身を置き、価値喪失の時代の日本人の情けない姿を痛烈にえぐるこの2冊は、あの失われた語り芸の復刻版かもしれない。

  侵略か聖戦かで戦争を考える無意味さ、生命や個性の尊重という戦後的価値の空虚さ、リマ人質事件での日本人の指導者の卑怯(ひきょう)と無責任ぶりなどを名調子で論じながら、著者は「個人の生命」を超えるものこそ価値の名に値すると説く。その具体的な項目は、国、誇り、名誉、武士など。しかし誤読してはならないが、これは時代錯誤的な「大義」を基軸としたナイーブな憂国談義ではない。現代日本を評する、「醜い」「つまらない」「緊張感がない」「抑揚がない」などの評語の頻出がそのことを明かしている。つまりこの日本版「反時代的考察」は、悲劇が不可能な時代における、美しい充実した生へのかなわぬ渇望をつづったものなのだ。福田は政論家でも社会評論家でも道学者でもなく、美学者なのである。

  この美学的方法は日本ではなかなか新鮮で、批判が私たちにとって耳痛く苛烈(かれつ)であればあるほど並でない力を感じさせる。だが耳痛さがどうしてこれほど私たちの耳に快いのか。私たちはこの新しいマゾヒズムの快楽に全リビドーを注ぎ込んでしまってよいのか。それこそはこの種の本の限界ではないか。

  彼は要するに「だんごより花」と言わねばならないときがある、またかつてそういう美意識が生きていた時代があったと言っているのだが、これは本当だろうか。大衆としての日本人はいつも「だんご」を選んできたし、またそうでしかない存在なのではないか。問題は、戦後的価値のむなしさを「日本人」のダメさとして一括して批判することそのものにつきまとうむなしさである(だからこそ売れるのだろうが)。本当は、新しい価値を創出できない日本的エリートのダメさだけをえぐるべきではないのか。


(原文で傍点が付されている部分を、当ページでは強調文字で表した)