小浜逸郎ライブラリ 小浜逸郎の過去の評論を掲載


掲載紙:北海道新聞
「批評指標」欄
(1997年8月1日付)

残虐性の歴史を学び直せ 「酒鬼薔薇」事件の背景

  「酒鬼薔薇(さかきばら)」事件についてのおおかたの識者のコメントは、常識人の感覚以下のひどいものだった。いわく「私たちの社会は何という悲しい事態を引き起こしてしまったのか」「偏差値や受験競争という教育のゆがみが原因」。少年や若者に関係した事件が起きるたびにくり返されるこの種の思考停止型言説の垂れ流し状況はどこに根差すのか。

  まず三つの指摘をしておきたい。「子どもは善、大人は悪」という信仰を捨てよ。健忘症から早く回復し、人間が条件次第でいかに残酷になりうるかを歴史によって学びなおせ。いくらばかなことを言っても飯が食える我が言論界のわびしさを自覚せよ。

  その上で、この事件について押さえるべきことを述べよう。平和と秩序が一応保たれたいまの日本でこれほど残酷な所業に及ぶのは、個人の特異性によるところが大きい。だが残虐性が個人の犯罪のかたちであらわれるのは、近代社会において理性の支配がたてまえになっているからこそで、前近代においては、残虐性は、公開処刑などに見られるように、共同性の維持存続をはかるための重要な手段であった。文明は、残虐性を簡単に超克させてはくれず、ただ「個人化」したり「精密化」したりするのだ。

  また年少者がこの種の行為に走ることに何らかの教育的背景があるとすれば、それは教育という「悪」が彼を追い込んだのではなく、逆に学校という古い集団管理の様式が年少者の生活意識をカバーできるだけの文化的価値を喪失しつつあるからだ。「大人−子ども」枠組みの液状化は大きな文明史的問題なのである。