さる4月14日、宮崎勤被告に死刑判決が言い渡された。公判には三種類の精神鑑定書が提出されていたが、判決は(多重人格説などをとった)他の二つを一蹴(いっしゅう)して保崎秀夫慶大名誉教授らの鑑定のみを一方的に採用した。三つの精神鑑定書にはどれも不満が残るが、ことに保崎鑑定の異常性欲説や拘禁反応説にはまったく納得できなかった。
別に死刑判決そのものに不服があるわけではない。問題は、判決理由のなかにこの事件の現代的怪奇さに真正面から取り組んだ形跡がほとんど見られないことだ。どうせ死刑判決を下すなら、この奇怪さをきちんと踏まえた上で、「それにもかかわらず万死に値する」という説得力のある論理を新しく提示すべきだ。
問題はいくつかあるが、とくに指摘しておきたいのは、凶悪な犯罪を裁くのに精神鑑定が利用されると、異常で残忍であればあるほど被告の責任能力を問えない可能性が高まることである。宮崎事件のような、常識を超えた事件においては、その不条理性が露呈する。この不条理性を乗り越えるためには、現在の法が拠(よ)り所としている「自由な意思決定をなしうる理性的個人」という古びた近代的フィクションを、もっと緻密(ちみつ)なものに鋳(い)直す必要がある。
精神障害者であっても、その犯した社会的害悪の大きさと責任能力の程度とを勘案して刑事罰を適正に定められるという方向に法思想を鍛え上げるのだ。今回のようにただ「当人の正常さ」を強弁するだけではもうだめなのである。