記憶も資料も定かでない50年以上昔の非常時における「慰安」の問題で人々は熱くなり、心情も経験も共有しえない一部の新世代の「援助」の問題を人々は喋々(ちょうちょう)している。
いずれも「性」そのものをどう考えるのかという哲学的・文学的・人間論的課題としては問題にされず、一方は政治イデオロギーの古典的な左右対立を復活させるかたちで、他方は高校生にあるまじきふるまいを放置しておいてよいのかという道徳論的なかたちで。
国家・民族の尊厳を維持したい保守派は、売春の公認性というかつての既成事実によりかかりつつ「強制連行」の事実無根を主張しながら、戦後民主主義社会が生んだ嘆かわしい道徳紊乱(びんらん)の好例として現在の女子高生売春を取り上げる。他方、個人の自由と尊厳とやらを金科玉条とする人権派は、国家が植民地支配によって他国の住民を売春に駆り立てたことは許しがたいとしながら、援助交際という「個人の自由」に対しては明確な歯止めの論理を対置することができないか、そうでなければ、「売春(買春)絶対許すまじ」という石部金吉的正義論の一点張り。
これらはいささか奇妙な光景ではあるまいか。
要するに、動機や条件はそれぞれの時代で異なりこそすれ、かつても今もこれからも、人は売春するし買春する、政治対立や道徳論議の材料にするまえに、この人間の変わらぬ性(さが)を悲哀をもって見つめることから、話をやり直してはどうか。