随筆・随想は昔から日本人の得意分野である。現代でも、いわゆる「エッセイスト」たちが、手慣れた調子で人生を語ってみせるといった形式の本が書店にはあふれている。しかし、それらが本当に人生というものの複雑で矛盾に満ちた奥深い相にまで認識の視線を届かせているのかといえば、はなはだ疑わしい。
この本は、日本の憂うべき政治社会状況に対して強靭(きょうじん)な言論を張り続けて来た著者が、自由な発想で毎週3枚程度の断章を2年間にわたって地方紙に連載した、文字通りの「随想録」である。ここには日ごろ目にする著者の、天下国家を論ずるあの骨太の警世家の面差しは影をひそめている。しかしその代わりに、近代の「個性」尊重に対する懐疑や、自己の宿命に醒めていた者の悲劇、思想家や芸術化が背負う絶対自由の重荷、虚栄と評価にかろうじて支えられる自我の弱さといった文学的な主題が、古今東西の著作家・実業家の言動を通し、また自らの経験も加えながら縦横に論じられている。凡百の「人生論」を抜いているゆえんである。ことに、韓非子が己の運命を予感しつつどうしようもない穴にはまり込んでいく過程を論じた部分が私には感銘深かった。政治的な論客を語りつつ、文学論になっているという事実に、この著作家の広さと深さを見る思いだったのである。
しかしこの本の基調音は、先人たちから離れて自由の極北まで来てしまった私たち近代人に対する悲哀に満ちた共感を奏でるところにある。「自我の隠しどころをなくした私たち」という再三繰り返される表現にそのことがにじみ出ている。だがまたそこには、そうした近代人の悲哀と運命をともにしようという静かな決意も感じられる。
著者のいうとおり「人生は無価値だと断定するのもまた虚偽なのである。なぜなら、人間は生きているかぎり、生の外に立って自分の生の全体を対象化して眺めることはできないからである」。