この本を、単に時事問題に対して保守派の評論家がその政治的スタンスから論評したものと受け取ると、読み誤るのではないかと思う。たしかにテーマとしては、オウム真理教、阪神大震災、大江健三郎のノーベル賞受賞、「謝罪」決議と戦後処理問題、北朝鮮の核問題、自社さ連立政権批判など、ここ1、2年の間に日本におこったホットな問題のほとんどが網羅的にとり上げられていて、しかも折に触れてさまざまな雑誌に発表したものが大半であるから、体裁としてもそれほどまとまりがあるとはいえない。しかし、そうした見かけの雑多な印象を突き抜けたところからうかがえるのは、大きな歴史的文脈のなかで<現在>が呼びかけてくる危機の声を必死に聞き取ろうとする文明論者の、繊細にしてかつ風格のある「居住まい」あるいは「構え」といったものである。
著者は、孤独と自由と不安の時代である現代を、「『都市国家』がなくなって、『個人』だけが孤独に存在しているという不安、世界を渡り歩いている無国籍風の自由の不安が人々の心をひたひたと襲っていた」ヘレニズム時代になぞらえている。期待された理性の時代はやってこず、やってきたのは占星術の流行する知性の退行の時代だった――この暗示は、半世紀を閲した戦後社会の崖っぷちに立たされている私たちに不気味な迫真力を伝えてくる。もちろん著者は、いたずらに不安をあおっているわけではない。自由の拡大と全体主義の慢性的なひろがりとが矛盾しないこの不透明な時代において理性の生きのびる道はいかにあるべきかという問いを自ら立てて、韓非子、ショーペンハウアー、福田恆存といった先立つ智者たちのことばを呼び起こしながらこの問いと文字通り真っ向から格闘しているのだ。
たとえば著者は、オウム真理教事件を単に詐欺師的宗教家が市民社会の秩序を揺さぶった騒動としてみるのではなく、ドストエフスキーの『悪霊』と照らし合わせつつ、「犯人たちの深刻な心理的葛藤劇に比して、外側の社会からこれを見るとあまりにも事件がナンセンスであるということの、コントラストの大きさ」を読み取り、さらにそこから、「声を上げても応答のない沈黙社会における自閉と破壊の情熱」の必然性を語り出している。常にアクチュアルな問題を扱いながら、そこに深みのある文学的、思想的考察のあとを刻みつけてゆく。その姿勢が大事なのだと思う。
この本には最後のぽつんと一つ、著者自身の少年時代、青年時代を回想した文章が載っている。本誌連載中の「私の昭和史」のプロローグをなすものと見受けられるが、これまたとても印象的である。一見他の部分から孤立しているようで、実は、自らの思想的出自を誠実に語ることによって一書全体の基本のモチーフを再び照らし出す格好になっている。私たちはそこにこの思想家の驚くべき一貫性と懐の深さとを確認できるはずである。