小浜逸郎ライブラリ 小浜逸郎の過去の評論を掲載


掲載紙:読売新聞
(1996年1月25日付)

「成人」を留保された若者

 高校生のポケベルについて次のような話を聞いたことがある。授業中、女子生徒のポケベルが鳴った。教師は、制止も聞かず平然と教室を出て電話をかけにいった彼女のあとを追い、連れ戻そうとしたが、彼女はそれをまったく無視して電話し続けた。少し前だと教師の叱責に「・・・・・・るせえな、いいだろ」とか何とか反抗の言葉を返したのだが、最近はまるで教師を人間として認めないような態度を平気でとるのだという。教師と生徒という関係が存在すること自体が念頭にないといってもよい。

 次は、三ヶ月ほど前にある大新聞に載った関西の少年グループについての記事の一部である。

 「木造平屋。薄いドアを開け、たたきを上がると三畳の板の間、その奥の四畳半が『集合場所』だ。家賃は二万五千円。午後9時ごろから少年ら4人が集まってきた。15歳が2人、19歳と20歳が1人ずつ。部屋の借り主は最年長のノブオだ。4人とも市内の同じ公立中学の出身者。全員、中学の3年間ほとんど登校しなかった。15歳のタケシは、このアパートには同級生や先輩が集まると聞き、行くようになった。女性タレントの動向や、パチンコ店の玉の出具合が話題の中心だ。『この部屋で、だべってんの楽しいですよ。何か落ち着くし』。ノブオたちの言葉が、どこかさみしく聞こえた」

 昨年来、いじめは一向に沈静化するきざしをみせないし、ホームレスの人に対する若者の傷害致死事件なども続いた。

 これらの子どもたちの「生態」は、大人に限りなく不安を呼び起こす。いったいあいつらはどうなっているんだ。何を考えているんだ・・・・・・。そこで手近な悪者探しを求めて次のような「教育論的解釈」が横行することになる。「管理教育のひずみが無気力な子どもたちを生み出した」「こんな子どもたちを作ったのは我々大人たちの責任だ」「偏差値に象徴される学歴社会の重圧が子どもたちをストレスに追いやっている」等々。

 私たちはうんざりするほどこの手の「さまざまなる解釈」を聞かされてきたが、さまざまなるといっても、その発想の根はただのワンパターンなのである。これらの「解釈」は、二つの前提を頭から信じることを強要している。一つは、大人一般と子ども一般とが実体的に存在し、両者は明瞭な対立関係としてとらえられ、前者はみな悪であり、後者はみな善であるという前提。もう一つは、子どもは未熟な存在として教育される過程にあるのだから、子どもの現象は大人が施す何らかの教育機能の結果として引き起こされているにちがいないという前提。以上の前提にたって「悪者」=大人一般の具体化が始まる。学校教師が悪い、いや親の責任だ・・・・・・。あとは決着のつかない「教育論的泥仕合」だけが残るというわけである。

 だが前提そのものを疑ってみてはどうか。受験競争のストレスなどという感覚が彼らの日常を支配しているだろうか。本当に大人が施す個々の具体的な「教育」が悪い意味で大きな有効性などをもっているものなのか。「子ども一般」に向き合って、彼らを導いたり汚染させたりする「大人一般」などという共同性がそもそも存在しているのか。彼らは「子ども」としての意志によって何かを「訴え」などしているのだろうか。彼らは本当に「子ども」なのか。

 これらの疑いはいま時代的にますますリアリティーをもちつつあるといえる。私たちが考えてきた「子ども」という概念のなかには、近代的なシステムとしての「家族」と「学校教育」によって囲い込まれた存在という意味合いが不可分のものとして含まれている。しかし社会が変われば「子ども」も変わる。近代は、自らしいた「大人―子ども」区分によって、何とか人間のファジーな部分が露出しないように抑え込んで来たのであるが、近年の「子ども」や「若者」の生態は、そうした境界線が意味を失ってきていることを示している。彼らは近代的なシステムからすり抜け、ボーダーレスでアンバランスで名づけようのない奇妙な存在としてあらわれつつあるのだ。何がそうさせているのか。

 ひとことでいうなら高度資本主義がもたらした豊かさと退屈、そしてその結果としての生の目標喪失である。いわば近代が作り出した状態そのものによって近代が復讐されつつあるのだ。未熟であるゆえに手厚く保護され指導されるべきものとしての「子ども」「若者」――気の遠くなるほどの長い期間、大人になることを留保させられたこの奇妙な存在は、そのこと自体に倦んで、いま流動する社会そのものを生きる気分としてとり込みながら、近代の制度的な枠組みからの逸脱をあちこちで表出させている。ことは「教育論議」のレベルではない。彼らを適切な時期に適切な「大人」にさせることができるように、社会システム全体を組み替えて、彼らに「具体的な生きる場所」を与えなくてはならない。同時に私たちの時代における「大人」とは何かも問われているといえるだろう。