小浜逸郎ライブラリ 小浜逸郎の過去の評論を掲載


掲載誌:教員養成セミナー
(1995年07月号)

「性愛論」
橋爪大三郎 著
岩波書店 刊
2200円

書評「性愛論」橋爪大三郎 著

「すべてのひとは、性愛へとさし向けられている」(本書序章より)――そうであるにもかかわらず、この領域は、論理の世界に引っかかりにくい。論理は、なされている経験の客観的な意味を「明らめる」ところにその本領があるのに、「性愛」の経験は、そうした公開性からの引きこもりを本質としているからである。

  橋爪大三郎は、この事実そのものを前提としながら、果敢にも「性愛」の経験を人間の全営みの見取り図のなかに正確に定位させるという困難な課題に真っ向から挑んでいる。そしてこの試みは8割以上の成功率を示している。画期的な本といってよいのではないだろうか。

  この本が画期的と思える理由は、次の2つの方法的態度が貫かれている点にある。(1)多くの性愛論が、人間を有性生殖をする動物の一般性(オス、メスとしての人間)に還元したレベルでしか論を構成できないのに、この本ではそうした「物語」的安易さを厳密に退けて、あくまでも幻想を編み、文化を形作る存在としての人間そのもののあり方から説きおこしている。(2)性愛を単に孤立的に論ずるのでなく、身体を社会へと編成してゆく基本原理として「性・言語・権力」の3つを押さえた上で、それらの相互関係を常に意識した全体的な見通しにおいて論じようとしている。

  未発表の旧稿「猥褻論」「性関係論」「性愛倫理」「性愛倫理の模像」の4章に、序章と終章、第2章の「性別論」を新たにつけ加えるという構成だが、なかではキリスト教世界における性愛のあつかい方を古代から近代まで克明に跡づけた「性愛倫理」の章が質量ともに圧巻で、宗教論としても重要な示唆を含んでいる。しかしこの本の最も貴重な価値は、猥褻現象の内に、性愛関係とその他の社会関係との決定的な分離をいう人間社会に普遍的な事実の存在を見破った「猥褻論」にこそあるように思われる。

  ところで、8割以上の成功といったのは、「性別論」に対しては少々異議があるからである。人間の性差が歴史的文化的に増幅されていることは疑いないが、この章では、生物学的な性別との必然的な関連を断ち切り、性差を捨象した個としての人間の原理的な先行性を強調する考えが好んでとられている。フェミニズムによく見かける論法であるが、「猥褻論」では慎重に避けられていた相対主義的観点(差異や有縁性を恣意的なものとみなすこと)が、ここでは何の疑いもなく採用されているのは、論理形式として矛盾してはいないか。一般の女性が出産の苦痛を避けるためにブタの子宮を借りるようになる(ことが望ましい)といった展望も、生存感覚を無視したメカニカルにすぎる思考である。技術の可能性は必ずしもその技術が大衆的規模で選択されることを保証しないのである。