小浜逸郎ライブラリ 小浜逸郎の過去の評論を掲載


掲載誌:教員養成セミナー
(1995年06月号)

「ヘーゲル・大人のなりかた」
西研 著
NHKブックス 刊
950円

書評「ヘーゲル・大人のなりかた」西研 著

「この本はなぜ『大人のなりかた』なんだろうか。――ちょっと不思議に感じる人もいると思う」と「あとがき」で西研は書いている。でも私は、この本の題名を見た時少しも不思議だとは感じず、すぐにとてもいい題だと思った。そしてまた、哲学を自分たちの実存的な生き方の問題にひきつけて読み解くことに腐心してきた西研にいかにもふさわしい題であるとも。

  けれど、何せ相手があの難解をもってなる「体系的哲学者」ヘーゲルである。「絶対理性」や「客観性」の強調の上に成り立ち、一見「実存」的主題と最も縁遠いかのように思えるヘーゲル哲学を、西研ははたして「実存」的にうまく料理できるのだろうか、と正直その包丁さばきに不安を感じないではなかった。ところが読み進むほどに、なるほど、なぜ彼があえてヘーゲルを対象に選んだのか、その理由が深く納得できるような気がした。ヘーゲルこそは、近代的人間が抱えざるをえない自己性と社会性の和解困難な分裂の問題を乗り越えるべく孤独に悪戦苦闘した哲学者なのだという事実が、噛んで含めるようなやさしくしなやかな文体によって、次々に明らかにされてゆくのである。

  ヘーゲル哲学の登場の最も大きな意味は、プラトンからカントまでの西欧形而上学の伝統であった自己と世界、主観と客観の静的な対立構造に基づく認識枠組みを、一方から他方へのたえざる運動過程として読み替えたことであろう。この運動として物事を見る見方こそは、ヘーゲル哲学が新しく切り開いた<希望>なのだ。「絶対理性」や「国家」は、たかだかこの<希望>が常に生きいきとした根拠を保持するための、時代性の刻み込まれたフィクショナルな究極点といってもよかった。

  私たちはいま、個の自由を最大限に尊重する思想を基盤にして自分たちの生をイメージしながら、一方では社会とか共同性とか公とかといった個を超えたレベルでの人間のあり方をどのように構成しなおしたらよいのかについて、戸惑い、いら立っている。この動機の重要性は「絶対理性」や「国家」への熱い理想的情熱が色あせたとしてもまったく変わらない。いや、むしろ現在のように、社会の固定的な理想像が崩れた時代こそ、ヘーゲルがこれらの理念において語ろうとした「共同性への意志、普遍性をめざす態度」の切実さが実感をもって伝わってくるといえるかもしれない。西研のつぎのようなことばが、そのことをいっそう身近に引き寄せてくれているように思える――「『精神の現象学』のヘーゲルがいおうとした理性と普遍性の態度を、ぼくは、(中略)共同性からたえずズレを感じてしまう人間が、それでも、ともに生きているという感覚を取り戻そうとする努力。そういう努力として受けとめてみたいのだ」