かつてマルクス主義が国家の廃絶をうたい、私有財産も市場も貨幣も階級対立も存在しない共産主義社会というユートピアを構想した。しかし、この理念を掲げて社会建設をおこなった地域で現実におこったことは、独裁権力の恒久化と強制収容所による大量圧殺、そして経済の行きづまりというとんでもない事態であった。このあともはや「国家の廃絶」などという遠大な未来構想は、誰もおいそれとは口にできなくなった。ところが竹内靖雄は今度の本で、この主題を堂々と正面に掲げ、それは可能であるし現実的な課題でもあると力説している。
竹内の立場をひとことでいうなら、市場の永続性を確信し、これを前提として個人や私的企業の自由な活動を最大限に発展させられるようなシステムを展望してゆくというところにある。当然、世界の経済交流の間にバリアーを築き「規制と保護」と称して国民の生活に介入してくる「国家」などという怪物は、なるべく消えてもらいたい存在でしかない。しかし彼はマルクス主義やアナーキズムのように、個人を共同性に融解させた理想社会を構想するのではなく、あくまで個人の利害や、家族のような少数の個人集団の利害の原理を生かすための「国家減らし」を考えている。ネオ・アダム=スミス主義とでも命名すればよいであろうか。
この人の本の魅力は、理念の甘さやたてまえの裏に隠された本質をずばりずばりと裁断してみせる、明快でいささかニヒルなその批評精神にある。簡潔で分かりやすい文体がその健全さを一層印象づける。ことに日本の「母子家庭国家」的性格や政・官・財の構造を描写した章などは、「かくこそ」と思わせて実に面白い。
問題は最後の章である。「国家のない世界」の可能性を提出しているのだが、彼は何と警察も裁判所も防衛システムもすべて民間サービス機関でことたりると言い切る。ひとたび「国家の廃絶」を口にしたからにはそこまで論理を引っ張ってみせるという徹底性は、あっぱれというほかはない。ただ一ついっておきたいのは、これらの国家機能は、けっしてそれだけとして個々独立にあるのではなく、たとえば刑事裁判は、犯罪にかかわる文化的な伝統意識と、また防衛(軍事)は、その時々の外交(政治)的行動と常に密接にかかわるところでしか存在できないということである。そしてそれらが総体として有機的に結びついて日本国という幻想の体系を支えている。したがって、個々の機能の民間への代替可能性が成り立てば、それだけで国家の縮小が可能であると思えるほど事態は簡単ではない。そこで、現在の時点でこうまで極端に「無国家社会」の構想をぶちあげることは、「市場至上主義」という理念がかえって空想的に見えて不利ではないかと思った。