小浜逸郎ライブラリ 小浜逸郎の過去の評論を掲載


掲載誌:教員養成セミナー
(1995年04月号)

「顔面麻痺」
ビートたけし 著
太田出版 刊
1300円

書評「顔面麻痺」ビートたけし 著

  ビートたけしという芸人は、タナトスの強い人だとずっと思ってきた。文学者で言えば、太宰治や三島由紀夫のように、どこかに自殺志向を抱えている。まじめさが身上の「文学」だと、書き言葉という知的意匠のなかにその自己解体的な要素が独特の美意識として昇華されることがありうる。しかしお笑い芸人は、人の笑いを誘うという行為そのものによってかなり直接に他者を挑発し、他者の感情の変化を露出させようとする。だからたけしの場合、自分のなかのタナトスは、ほとんど常に他者に「笑い」という暴力を投げつけるその接点のところに表層化されて実現されてきた。彼の芸は、完成された芸人とそれを静かに見守る観客という固定された構図を自ら解体しようとするエネルギーによって支えられてきたといってもいい。

  ところで彼はこれまでそういう自己解体志向を、芸の上にではなく本当に実現してしまったことが2回あった。一度は「フライデー事件」の時で、これ以降彼は映画などの多彩な分野にしきりに手を出しはじめる。そして二度目が今度のバイク事故である。この事故は、一番上まで上りつめた地点での行き詰まりを感じていた矢先のことであるから、彼自身の言うとおり半分は無意識の自殺行為であったといえる。

  そういう自分自身のあり方を彼は、先進国日本の行き詰まり状況の比喩にまで拡張している。「ところが、今の自分は、そしていまの日本は、突き詰めてやればやるほど、なぜか空転して、前に進んでいるという実感が起きない。(中略)事故を起こして体を傷つけて、はじめて切実なものが感じられる」。これは直感的な表現にすぎないが、兵庫県南部地震の被害のすさまじさなどを考え合わせると、不気味なくらいある感じを言い当てているというべきだ。

  たけしの「顔面麻痺」記者会見を見た人は、一瞬だれでもぎょっとしたであろう。しかし私は、あの事故で彼が死ぬのでもなく、またきれいに回復するのでもなく、自分の本質的な自己解体志向を顔にはっきりと刻印したまま背負っていくという成り行きにいかにもたけしらしいものを感じ、彼は当然あのままでもしぶとくやっていく気なのだろうなと思った。するとやはりこの本にも似たようなことが書いてあった。「正常な顔ってのはどれをさすのか。テレビに出ていい顔といけない顔を分ける基準はどこにあるのか。病気の顔は人前に出してはいけないのか。変な顔には変な顔の笑いがあるんじゃないのか」。かれは部分的な自殺をくりかえしながらそのつど自分の中心をずらすことで表現者生命を生きのびさせてきたのであろう。今度はどのような「再生たけし」を見ることになるのか楽しみである。そしてそれはやはり今後の日本の姿を象徴しているのかもしれない。