講義
「世間」に哲学は必要か
(第4期講座)
受講生から寄せられた感想です
「女の哲学者」について女性のコメントが欲しかった様子でしたが、私(一応オンナ)としては「男ってこの話題になると実に楽しそうなので、別にそれでいいんじゃないですか」という感想です。男は女よりエライと思わないと男はどうもボッキしないらしいです。体は成熟、顔は幼くてボンヤリした表情、の女性のハダカ写真が世を席巻してます。これから、女性がいろいろなところに進出を果たすとドンドン不能なオトコがふえて人類は滅びるかもしれませんが仕方ないですね。
どうも女には本当のことをいってもらいたくないのが男でしょう。「ちがう、女はこうなんだよ」と30数年、わりと知的職業に従事する夫に言い続けても団塊の世代のオトコは男尊女卑が身に染み付いているのでワカラナイというかワカリタクない、ようです。
「哲学」は全然人間(人類)をシアワセにしないけれど(中島センセーと同じで私も自分がシアワセになってはいけない、みたいな所があるのでいいのですが)人間ってつくづくバカだなーと思わせてくれるから、好きです。
1「私がいる世界」2「私と他者がいる世界」3「私がいなくて他者がいる世界」と3分類にした場合、3のケースはあり得ない。私がいて、他者が存在するのに、私が存在しなければ同時に他者も存在しない。では何故、道徳は他者を優先させるのか。私が考えることはすべて自己であり、結果的に自己愛となるのではないか。私が考える真実性というテーマは個々に人間がいるだけ存在するのではないか。そこに道徳は本当にあるのでしょうか。
今日のカントの話は、大部わかりやすかったと思います(前2回に比べて)。
小浜氏との対話も、小浜氏が一般の人が考えることの時間論として聞けて、中島氏との対話がおもしろかった。
休み時間の喫煙で、教室の中がタバコのにおいでくるしい。タバコはもっと教室からずっと離してほしい。
人間学アカデミーのことを知ったのは朝日新聞の〈黒板〉の小さな記事ででした。その少し前におなじ朝日新聞の文化欄に中島氏のカントの勉強会の記事が載っていて、なんて面白いひとが世の中にはいるのだろうと興味をもっていました。この中島氏の名前を人間学アカデミーの講師陣の中に見つけ、さっそく受講手続きをしました。
予想にたがわず面白いひとだったというのが第一の感想です(失礼な言い方をお許しください)。学問と行動がこれほど密接に結びついた方はそうざらにはいないのではないかと思います。又、私はカントは一行も読んだことはありませんが、中島氏の潔癖性というか、腕白小僧(またまた失礼)のような「わかりませーん」、「無意味ですねー」というストレートなものの言い方に、あくまで直感的にですが、生きたカント哲学をみたような気がしました。
さて第三回目の講義で、なぜ女の哲学者がいないのか、それは生物学的な理由に拠るのではないか、という自説を展開されました。男は生物体として欠陥がある、それゆえ生物体としての自分の存在への疑問、不安、戸惑い等につきまとわれ、そこから哲学の必要性が生じる。しかし女は生物体として充足している、それゆえ生物体としての自分の存在への疑問、不安、戸惑い等につきまとわれなくて済む、そこから哲学の必要性は生じない、というようなことを中島氏は言われはしませんでしたが、私は勝手にそういうことだろうと推測しました。
そういうことであれば基本的に私も中島氏の説に賛成ですが、たぶんこれは我田引水だろうと思います。
が、そういうことだと強引に仮定して、この先、私は私で進みます(失礼)。
たとえば、なぜおまえは生まれてそこに存在しているのか、と問われ満足に答えられたら門の中に入れてもらえるとしたら、女ならきちんとした答があります。種の保存のため。これで十分です。ところが男の場合、答はありません。男が生まれてそこに存在していなくてはならない理由は、つきつめれば何もナシ。精子のコレクションのワンセットもあればその本体の存在理由は簡単に吹っ飛ぶわけです。門の中に入れてもらうために男は、無用なものを有用にする論の発明をしなくてはならず、そもそも存在とはなんぞや、から考えなくてはならないハメになる。そこから時間論へと進んでいき…という具合に、哲学の中枢部分の論考をしていくことになる。『なぜ女の哲学者がいないのか』にある、〈哲学は生物としての人間にとっては随分不自然な営みである〉、〈哲学はワイセツに思われる…〉は、このようにして考えていくと、しごくすんなりと理解できます。哲学は、人間の自然な営みからすれば〈無用〉なものであり、〈無用〉はワイセツと親戚関係にあるというのも、そもそもの哲学の発端が、いわば錬金術のようなものなのだから、納得できるという気がします。
話を替えます。
印象に残った中島氏の言葉が二つかあります。三回目の講義でした。小浜氏とのトークバトル(?)でしみじみと、「わたしは普通になるのがいやなんですよ、安定したくないのですよ。安定したらおしまいですからね」これがひとつ。それから「わたしは自分の言葉を鍛えているのですよ。正確な言葉を使いたいのですよ」
あの滑らかで湧き出るような弁舌は、生来のものももちろんあるのだろうと思いますが、一方普段の鍛錬の成果でもあるのだなと、これを聞いて納得できたと思いました。
又、日常生活を送るなかで、妥協せずひとつひとつきちんと考え、批判するところは批判し、わからないところはわからないと認め、そうやって生きた哲学をしておられることをも示唆する言葉なんだな、と思いました。
教室の〈出店〉で氏のご著書『カントの時間論』と『時間と自由』を購入しました。前者を先にいま読んでいますが、こんなにカントがすらすらわかっていいのかしら(わかったような気になってというべきかもしれません)、と驚いています。まるで数学の証明問題を解くような贅肉を削ぎ落とした文体で、とてもわかりやすいです。又カントがこんなに現代的だったとは意外です。
三回の講義によって世界がひろがり厚みが増したような錯覚に陥っています。錯覚を現実にするために、これから自分なりの方法で事後処理をするつもりです。
中島先生、ありがとうございました。
中島先生に会えてよかった。本を集めてたので、安く買えてよかった。自分しかいない、という言葉はわかっていたが、意味がわからなかったが、少しわかるようになった。
時間論も同様。
何も知らないまま、もうすぐ死んでしまうという思いが強まってよかった。
哲学の核心(存在論、自我論等)を扱うことを第5期以降もご検討ください。
中島義道はイヤな奴だ!
でも大ファンです。(←こう言うと、中島さんは嫌がるでしょうが)
哲学についてはじめて学習しました。今後もこの世界に首をつっこみたいと思っています。
学生時代に一般教養で「哲学」を受講して以来ですし、基礎知識も少ないので、中島さんの講義は難しく、多くは理解できなかったような気がします。
結局“哲学”は人間にとって必要なのでしょうか。
日々、社会の中で生活していくには、深く追求してしまうとかえって生きにくくなってしまうのでは。
でも、また著書を読んでみたいです。
トークの司会者、自分の考えられることに、講師の話をとりまとめようとしているようで、他の感覚を持った方だったら、もっと講師の核に近づけたのではないかと思う。
時間/自己など、関心のある話が出て、面白かった。
半分わかったような、分からない話でしたが、今後、中島氏の本を読む時によいように思った。
小浜氏とのトークショウはとてもいいです。