中島 義道
よく言われることであるが、「哲学」という訳語は、適切ではないように思う。これは、ギリシャ語の《philos(愛) = sophia(知)》の訳語であるが、明治の知識人が「愛知」ではなく「哲学」(「哲」とは「明らかに語る」という意味)を選んだ理由は、わからないこともない。彼らが《philosophia》にまず期待したのは、国家の中枢を担う若者たちに必要な「洋才」であり、とすると、ヨーロッパで当時講談哲学を牛耳っていた新カント派こそ、それにふさわしいものであった。この学派に限定する限り《philosophia》とは、根源的な学問としての「哲学」なのである。だから、例えば東大文学部の哲学関係の学科はカントの三批判書(『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』)に正確に対応して、哲学科、倫理学科、美学科に別れている。つまり、「哲学」は誤訳ではなく《philosophia》の一側面を訳しただけなのである。
では、「愛知」には「哲学」によっては表わせないどんな側面があるのだろうか?それは、何よりも「知を愛する」という態度である。「愛する」とは、好きでたまらないという意味ではない。「渇望する」という意味、「恋い焦がれる」という意味である。つまり、これはソクラテスによってはっきりした形を得たのだが、真理を他の何かのため(例えば社会的な力を得るため、金持ちになるため、幸福になるため)に求めるのではなく、真理であるゆえに求めるという態度である。
しかも、その真理は、始めから体系的な学問として、決まっているものではない。すべて自分で問いつづけ、点検しつづけるという行為、態度、生き方のうちにはじめて現われる。しかも、各個人の思い込みではない。個人が普遍的な知を「恋い焦がれる」という構造のうちに、立ち現われるのである。
だから、とくに《philosophos「愛知者=哲学者」(以下「哲学者」をこの意味で使う)》には、倫理的な態度が要求される。真理を求める営みそれ自体の真実性が求められるからである。哲学者は、みずから真理であると信ずることを、常識や因習や権威に屈服することなく、そのまま語らねばならないということだ。それが、哲学者を哲学者たらしめる定義的特長である。だが、この要請はなんと過酷なことであろうか?
ソクラテスの死刑判決の罪状は、神々を認めないことと青年たちを堕落させたことだとされているが、何より彼は――因習や権威を配慮せずに――真理を真理であるゆえに求めるなどというフトドキ千万なことを実践してしまったがゆえに、死刑にならざるをえなかったのだ。
だが、すべての哲学者に同じことを要求はできない。(プラトンの描く)ソクラテスは特別であり、だからこそ偉大なのである。だが、現実のソクラテスはかならずしもこうではなかっただろうし、大多数の哲学者は、けっして真理を真理ゆえに求めてはいない。いつでも真理のために死ぬ覚悟をしてはいない。だから、二重の意味で「ならず者」である。彼は「普通の世界」に住めない者だから「ならず者」である。しかも、かれはみずからの理念に合致しえないから「ならず者」である。現実的な意味における《philosophieren(哲学すること)》とは、こうした二重の「ならず者」である自分を自覚しながら、責めながら生きることであると思う。ソクラテスのように、自分の信念のために死ねたら、どんなにすっきりするであろう。善良な市民のように、社会の因習に安住できれば、どんなにラクであろう。だが、どちらの道もふさがれている。哲学者は、どちらの道からも外れた「ならず者」として生きるよりほかない。その居心地の悪い地点にずっと留まるほかない。
いつまでも抽象的なレベルで語っても真意を伝えるのは難しいから、一つの実例として、最近勃発した朝日新聞との「戦い」を紹介してみよう。毎週土曜日の夕刊の文化欄に「ピンホール」と題して、五、六人の書き手によるエッセイを一面全体にぐるりと囲むように載せている。そこに何か書いてくださいと言われたのが七月のはじめであった。担当は、前にも数度会ったことのあるFさんである。彼女は、私の本をずいぶんよく読んでいて、私の「偏屈ぶり」に関心を寄せ、そのうえで「応援しますから、何でも自由に書いてください」ということであった。そこで、最近、女子高校生のスカートの中を手鏡で覗き込んだとして現行犯逮捕されたU教授の事件、およびそのマスコミ報道をテーマにして書いた。
私の言いたいことは「正常であること」と「法に適っていること」(裏返して言えば、「異常であること」と「法に反していること」)は異なる、という単純なことに尽きる。スカートの中を覗き込むことは、単に法に反しているだけであって、とくに異常なこととは思えない、それを異常者扱いにするのは、中世の魔女裁判と同じ暴力である、と書いた。ついでに「強姦もとくに異常ではない」と筆を滑らせたところ(そう心から確信している)、案の定すぐにFさんからクレームがついた。そればかりではない。彼女からは、そのほかにじつに表現の細部に渡って、注文がついた。「魔女裁判であるから」は断定しすぎだから、「魔女裁判という面もありうるから」にできませんか?先生は魔女裁判の専門家ではないのに、どういう資料に基づいてそう言えるのですか?というように。ええい、もう面倒くさい、降りてやれ、といったん啖呵を切ったが、思いなおして、彼女の指摘にそってすべてを書きあらためた。次にその原稿の全文を記載する。
U教授が、女子高校生のスカートの中を覗こうとして、現行犯で捕まった。彼の場合、有名人であり、しかもいかにも清潔そうな紳士であったから、「見せしめ」としての効果は十分あったであろう。いまや、痴漢冤罪が多発する(らしい)満員電車の中は、ますます男たちを震えあがらせている。
一人の男の「些細な」行為に、数十年にわたる膨大な数の女たちの苦しみがのしかかる。いままで唇を噛んで我慢してきたが、もう泣き寝入りはしない、泣き寝入りはさせない、と。
こういうとき、取り調べははじめから容疑者を「魔女」と決めてかかる現代の魔女裁判になりかねないのである。
それはそれとして、わからないこともない。すべからく「革命」はやりすぎなければならないのだから。
だが、どうしても変だと思うのは、こうした性的な事件が起こると、スカートの中を覗くことが、あたかも恐るべき「異常な」行為であるかのように言い立てることである。
でも、そうかなあ?
風呂場を覗き込む行為も、酔って女性の胸や尻に触る行為も、生物体としてのヒト(オス)にとって、とくに不自然な行為とは思えない。
ただ、こうした「自然な」行為が現代社会では(なぜか)激しく非難されるのである。単なる「制度」が自然とみなされる瞬間に、その制度からの逸脱者は(単に不正をはたらいた者ではなく)異常者とみなされてしまう。これは人類の歴史始まって以来、面々と続く暴力である。
だから、すべてが変だとわかっていても、異常者扱いされるのが厭なら、みんなと口裏を合わせて、性犯罪者を「ヘンタイ!」と叫んで社会から葬り去りましょう。そうしないと、あなたに危険が及びます。
ちょうど魔女裁判で「魔女」と叫んで唾を吐き掛けない者は、気がつくと魔女にされてしまったように。
幸いFさんとの電話のやり取りで、これで行きましょう、というところまで進み、掲載前日(七月十六日金曜日)の午後四時にゲラが出た。何度も読み直し、われながらしごく「まとも」なことを書いたと思った。だが、同じ日の深夜、突然Fさんから電話がかかってくる。「すみません。あの原稿はボツになりました」。デスクまでOKを出しながら、重役審査で最終的にボツになったとのこと。犯罪を肯定するようなものは載せられない、ということだそうだ。「朝日新聞こそ、善良な市民の代表なんですね」という彼女の言葉もうつろに響く。とはいえ、こうした仕打ちに対して、私のうちでそれほど怒りは膨らまなかった。まさに私が書いたように「これは人類の歴史始まって以来、綿々と続く暴力」だからである。そして、私もまた決して潔癖ではなく、同じほど汚れているからである。異端審問所におけるガリレオのように。
コペルニクスの地動説を支持するガリレオの天文学理論が異端の疑いありとして、彼はローマの異端審問所に呼び出された。信仰は科学的真理より優位に立つからである。現に地球が太陽の周りを回っていることはどうでもいいことだ。それより、そうした真理が教会の権威の維持にとって有害であることが問題なのである。このガリレオの異端審問を、中世の遺物のように考えるのは、大間違いである。いまや、教会の代わりにジャーナリズムという巨大な権力が、真理よりも重要な理念(人権? 自由? 生命?)をよりどころにして日々異端審問を続行している。その背後には膨大な数の善良な市民がうごめいていることもまったく同じ構造である。「地球が回っている」というガリレオの信念が揺らぐことはなかったが、彼は教会に対して自説の誤りを認めた。それは、彼が弱いからであり、卑怯であるから、すなわち「ならず者」の典型だからである。
そして彼は、裁判所を出るとき「それでも地球は回っている」とぽつりと語った(と言われる)。地球の公転は、審問所で彼が取り消すことによって揺らぐレベルの事柄ではないことを彼は知っていたからである。さらに、聖職者たちも地球が回っていることをうすうす信じながらも、政策上(立場上)認められないというホンネがわかっていたからかもしれない。
私が朝日新聞の仕打ちに対して、大きな憤りを覚えなかったことも、これに似ている。あの原稿をボツにした重役だって、あの程度のことは知っているはずだ。ただ、教会と同じく、朝日新聞の政策上載せるわけにはいかないだけなのだ。新聞の社会的役割とは、けっしてナマの真理を伝えるものではない。さまざまな事象を取捨選択して、みずからの信ずる価値や理念の実現を目指すこと、その理念に反する事実は、断固排除することである。私とて、朝日新聞に「外国人はこの国から出て行け」とか「障害者はおとなしく家にいろ」と書いて(これらは私の信念ではないが)そのまま載るとは夢にも思っていないのだから、そして、身の危険を感じたらさっさと引っ込めるのだから、同じ穴のムジナである。
ジャーナリズムの世界だけではない。われわれがいきていくうえで、じつは真理はそれほど重きを置かれていない。真理より、生きることや幸福になることのほうがはるかに重要なのである。真理は時に必要だが、生きることや幸福になることを妨げないかぎりである。その通りなのだから、小学生のころよりそうはっきり教え込むべきだと思う。
そして、哲学者とは、困ったことに、こうした世の中の「正しい」態度についていけない者、こうした空気に居心地の悪さを覚える者なのである。しかも、大部分の哲学者は、殺されたくもなく、追放されたくない腰砕けなのだ。私も、ガリレオのように、火炙りになりそうになったら、あわてて「地球は回っていない」と答えるであろう。それにもかかわらず、地球が回っていることも確信しているであろう。ずるく、さもしく、弱く、卑怯な人間であり、それを自認しながら変えることがないであろう。まさに文字通りの意味で「ならず者」なのである。