佐藤 幹夫
世に溜飲本なるものがあるという(色モノともいう)。両氏が「下町の悪ガキ」や「封建主義者」を仮構することで、確かに風よけにはなる。グタグタと言われたら「うるせーっ、俺は封建主義者だ、下町の悪ガキだー」と返すことで取り合えずは済むし、批判が更に弾みになる点では強みであった。しかし読後、溜飲本として敬して(?)遠ざけられてしまうことは逆に弱点でもあった。それなら両氏ともに挑発を専らとするだけの暴論家かと言えば、私はそうは思わない。民主主義や平等理念が隠し持つグロテスクさに対して、人一倍鋭敏な感度をもっていること。差別という問題の本質を直観的に見抜いていること。それが理由である。そしてこのことが、両氏に共通する最も重要な特質だと考える。
呉智英は今回の『危険な思想家』において、真正面から人権イデオロギーと差別の問題に相渡っている。民主主義をイデオロギーとする国家では差別を隠蔽すること。差別/平等と対置されることは現代の知のパラダイムにであり、その意味で実は差別論は知識人論であること。そしてきわめ付けは「目指せ、差別もある明るい社会」という、そのスジを逆撫でする一章なのだが、旧著において、あの連合赤軍事件の衝撃から民主主義に対する疑問が始まったのだと書いてあるのを目に留めたとき、私は深く頷いた。
一方のビートたけしは、ギャグのネタにしながら、自身の生活史とお笑い芸人としての下積みがいかに人間扱いされないものだったかという体験を(つまり被差別的扱いを受けたということだ)決して手放してはいない。分際を知れ、とは彼の得意とするフレーズなのだが、これは「差別もある明るい社会」に通じていく感性だろう。彼の手になる『あの夏、いちばん静かな海。』を観た者ならば、人権主義者からは生まれ得ない聾者たちの世界を描いて見せたことは知っているはずである。(ただし『私は世界で嫌われる』では、タイトルの「嫌われる」が持っていた微妙な揺れが機能しなくなっている。映画監督としてのステイタスが上昇し、毒舌が意に反して、いつの間にか認知されつつあることなどによるだろうか)
最後にどうしても触れておきたいことがある。ビートたけしの言説が、思想となる一歩手前の所で立ち止まっているように見えることだ。これはなぜなのだろうか。彼のエッセイは基本的に語り、喋りである。どれほど現代社会の困難な課題や知の先端の問題に触れようとも、それは語り=漫談であり、面白さもパワーもそのことによる。彼自身、漫談で結構、思想として裃を着せられることは真っ平だと言うだろう。私も「書き言葉」の優位性などを言いたいのではない。ビートたけしが知的になればなるほど、語りが「思想」として立ち上がるためには何が必要かという問題を逆に照射してくると感じられるのだ。思想は書き言葉によってしか為されないのか。『危険な思想家』にはあって『私は世界で嫌われる』にはないもの、それは何か。
同じ言葉の営みであっても、書き言葉と語りとはまったく性格の異なるものであり、そこにはたぶん想像以上の深い溝がある。それはまだうまく解かれてはいない。