浜田寿美男 講師紹介


掲載誌:『おそい・はやい』第20号
(ジャパンマシンスト社)

子どもが「巣立つ」ということ −その1−「私」は自由ではない

浜田 寿美男

私は発達心理学者!?

  この新しいコーナーで、子どもが「巣立つ」ということをテーマに、何回かの連載記事を書くことになった。というか、正直いって、そうなってしまったと言った方が正確です。私のなかでは、残念ながらこの「しまった」というところにアクセントがあります。何しろ引き受けてはみたものの、これを書こうというしっかりした目算があるわけではないのですから。

  こんな依頼が入ったのは、私が曲がりなりにも、これまで長く発達心理学という領域で仕事をしてきたからでしょうけれど、じつはここでもまたアクセントは「曲がりなりにも」というところにあるのですね。じっさい、発達心理学者というと、なにかいつも「発達、発達」と言って、まるで人生は発達のためにあるかのように言う手合いが多くて、私自身、一緒にされたくないって、つくづく思ってきたのです。

  それでも、周囲にへきえきしながら、三十余年もこの世界で生きていれば、いろいろわかっているところもあるはず、編集部からはそう思われたのかもしれません。だとすれば、最初からお断わりしておかなければならないところです。というのも、私自身はそこのところでむしろ開き直って、人間のことって、そうそう簡単にわかるわけはないし、私自身わからないことだらけと思っているからです。こんなふうに言うと、ずいぶん無責任に聞こえるかも知れませんが、じつはこの「わからない」ということがまず出発点。

  世間では、ほんとうはよくわかっていないことを、まるでわかっているかのように話を進めて、その結果おかしなところにはまりこんで、だけどそのことに気づかない、といったことがしばしばあります。そうだとすれば、そこんところでもつれている糸を、少しでもほぐしていくというのも大事な仕事。私にできることがあるとすれば、そこぐらいかな、って思っているのです。

  みんながわかっているふうに思ってしまっているところを、ちょっと視点を変えて、ほんとうはよくわかっていないんじゃないかと考えなおしてみること、そこから出発してみたいと思います。

私のことは私が決める?

  で、最初に考えたいのが「私」ということです。
  私たちはみんな、私は私、って思っています。この私がいて、この世界を生きている、そしてこの私のことは私が決めるんだって思っています。だけど、ほんとうにそうでしょうか。

  ここでテーマになる「巣立ち」なんかも、親に守られているところから「独り立ち」するというような感じで、「私」が自立して一人で生きていく、あるいは自分のことは自分で決めて、責任は自分で負うといったイメージで考えがちだと思うのですが、そもそもそんなことができるのでしょうか。

  じつのところを言えば、「私」というのは自分のことを自分で自由に決められるほど、自由な存在でありません。
  一つには、何かしたいと思っても、周囲の状況でなかなかうまくいかない。旅行に行っておいしいものを腹いっぱい食べたいと思っても、お金がなかったり、時間がなかったり……そんな不自由がいくらもあります。

  そしてそれよりもっと問題なのは、これをしたい、あれをしたいという、その自分の思いが実現しないとき、これを簡単には断念できない、つまり自分で自分を左右できないということ。これが二つ目の不自由です。

  たとえば、好きな人ができて、思いを打ち明けたが、相手が自分の思いに応じてくれない。それは第一の不自由ですが、そのうえで、相手が応じてくれないからと言って、すぐに気持ちを切り替えて、その人のことをあきらめるというふうに簡単にはいかない。そうして自分の思いをもてあまして、日々の生活が破綻することさえある。 人は自分自身の思いさえ、たやすく自分でコントロールできない。こういうことが私たちにはいっぱいある。この不自由こそは、人間の厳然たる事実です。

「私」は身体の後からやってくる

  ところが私たちは、このことを正面から認めず、自分のことくらいは、自分で決められるのが当然だと思っている節があって、そのことを人にも自分にも要求しがちです。だけど、そこにはやはり無理があります。
  そもそも「私」というものが、どうやって成り立ってくるかを考えればわかりますが、「私」というのは身体の後にやってくる。私たちは気がついたら生きていたんですね。「私」の成立以前のところですでに身体はあって、その身体の働きのうえにこそ「私」は、いわば後進のものとして成り立ってきたのです。

  じっさい人間も最初は受精卵だった。私もあなたも、彼も彼女もそうです。肉眼で見えるかどうかというくらいの小さな受精卵からはじまって、細胞分裂を繰り返し、膨大な数の細胞が組織を形成し、器官を作り出し、胎児の身体をなすようになる。その胎児が時とともに育ち、やがて母の胎内から出でて、赤ちゃんとして誕生する。

  その育ちは人間の人為では左右できない、まさに自然の営みですし、自然の計画したとおりの流れです。「私」というものが登場するのは、その流れのさらに延長上のことであって、けっして流れの最初からあるものではありません。

  身体のうえに私が成立するのであって、私のうえに身体が成立するのではない。この当たり前の事実を考えただけで、私でもって私を左右しきれないということは当然だということに気づくはずです。

  さてさて、とんでもないところからはじめてしまったかもしれません。だけどこのことの確認をしておかなければ、子どもの「巣立ち」について語る話が、安易なハウ・ツウ話になりかねません。
  人間の出来事は人間の意志であれこれいじって、簡単にどうこうできるものではない、そういうままならないものだということを、まず最初に押さえて、次回からは少し具体的な話を入れてお話していきたいと思います。

参考になる本


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