現象学の方法は、「社会」認識を方法をすべてカバーできない。しかし現象学は哲学的方法の基礎論なので、社会認識の本質がどのようなものか、その方法の妥当性をどこに置きうるか、についての基礎論を提出することができる。近代哲学の社会思想をあとづけながら、可能な現代社会理論を構想するための基礎原理を輪郭づけてみたい。
「言語」の本質は何か。
言語のルールは、一般意味のルールと一般統辞性のルールがある。このルールは、人間が現実言語においてそのつどの「関係企投」を創り出すための「道具=用在」(Zeug)。たえざる言語的関係企投の行為が、ルールを再編成する。これは「社会集合的約定」の原理。
「世界」とは何か。人間の「世界」は、「環境世界」ではなく、普遍的な「社会集合的約定」のゲーム。人間の「世界」には「事実」それ自体はない。それは基層的な「価値の秩序」と、その上に成り立つ「世界了解」の意味の網の目。したがって、言語によって事実として「世界」を把握することはできない。むしろ、無数の言語行為とそれによって形成される「約定」の網の目が、つねに「世界」を再構成しつづけている。(ニーチェ・フーコー)
言語の意味は、世界了解を編み変えることで、つねに相互関係を刷新してゆくこと。 「事実」それ自体や「真実」それ自体を描きだすことではない。「事実」や「真実」は、事後的な間主観化(=客観化)。社会学・人間学は、「本質学」たらざるをえない。
言語は、人間の「幻想的身体性」の根拠でもある。人間的「身体」の本質は、感受性、美意識、倫理性。これらは「関係態度」の源泉。つまり「自己意識(アイデンティティ)」の根拠。
感受性、美意識、倫理性を形成するのは、人間的「関係世界」。それはつねに「身体化」される。言語は明示的な意味の体系を最も表層としてもつが、それを根拠として織りなされる関係企投の網の目が、「幻想的身体性」を編み上げる。人間的「エロス」と「欲望」は「意味」によって織りなされた綾布である。
「世界」とは、「幻想的身体」による可能的経験としての「世界」の間主観的総体である。
《まとめ》
このことには必然的な理由がある。「構造論的アポリア」→「身体」「言語」「社会」
これらのものは「構造」だが、これをいかに捉えることができるか。
→「身体」のアポリア メルロ・ポンティー→「身体」とは「構造化する構造」。自己転回する構造 →「構造と力」というアポリア。
→「言語」のアポリアは、「意味」の多義性のアポリア→「空は青い」はその意味を一義 的に決定できない。「言語」を意味を規定するルールの構造体と考えると(ソシュール)、この多義性の現象が解明できない。ここには「意味生成」の原理論が必要。
→「社会」のアポリアは、その「構造」の多元的解釈可能性(すなわちイデオロギー性)の問題。→どれが厳密かつ「正しい」社会論か? 社会を実体的な構造体として捉えることの不可能。「実証主義」の限界
→「社会有機体説」と「社会機械論説」
→ヴェーバーの「理解社会学」「理念型」
→「社会システム論」 システム理論の適応→パーソンズ→ルーマンの「社会システム論」→「機能‐構造主義」→「開放系(システムと周界)」
*「オートポイエーシス・モデル」「創発的秩序モデル」(コミュニケーション理論と「意味」の理論へ)→社会は「行為(選択行為)のシステムではなく、コミュニケーションのシステム」である。最終的には、「システムと環界」という出発点の区別はなんら特権的原理でない。「絶対的原理」ではなく、他の区別原理も可能。
「社会システム論」のポイント
⇒近代における「身体」「言語」「社会」のアポリアの本質 (経済学も同じ)
自然科学的方法を人文科学に適応したこと。その本質の違いを理解できなかったこと。
フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』
「身体」「言語」「社会」は一つの「構造体」しかしそれは「事実学」として扱えない。
これらを「本質学」として扱え。⇒「本質学としての社会学」という提唱。
*実証主義による伝統哲学批判 コント デュルケーム パース クロポトキン マルクス等
*「観念論」について →人間学的方法
→「観念論」とは、「世界は実在せず、感覚や観念だけが実在するという説である」?
→「観念論」は、観念実在論(唯心論)・形而上学・真理主義である?
→「観念論」とは、形而上学的独断論(神がいる)と、経験論(確実と言えるものは何もない)の間の難問を解くための独自の考え方(方法論)
→「唯物論」は「理神論」とともに、近代的合理的理性のわくぐみ。→「功利主義」
事物はそれ自体として存在しない。また「観念から構成されるもの」というのではない。事物の存在本質は、「にとって、のために、として」という意義連関。
→近代「観念論」の主流は、
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