小浜 逸郎
まず竹田さんとの出遭いからお話します。
『現代批評の遠近法――夢の外部』(講談社学術文庫)という竹田さんの本の解説にも書いていますが、八五年の十一月にお会いしたのが最初です。当時ぼくは「ておりあ」という雑誌をやっていて、そこで差別問題について企画したとき、ある人から竹田青嗣という批評家が『〈在日〉という根拠』というたいへん優れた本を書いていると教えられたんです。読ませてもらうと、これまでの在日の作家が、在日としての自分は民族として生きるか、日本人として同化するのかという二元論で考えていたのに、金鶴泳という作家が、初めて二元論を超えた文学の問題として捉え直している、ということが書かれていて、ぼくは非常に感心したんです。
これまでの在日作家は、文学を借りながら、在日の問題を実は政治的に語り、立場のために文学を利用している、そういうものしかないという偏見を持っていたのですね。ところが竹田さんは金鶴泳を材料として、そうした二項対立問題をどのように捉え返したらいいかという発想で書いているのですね。こういう書き手がいるのかとびっくりし、お会いしに行ったわけです。すると期待にたがわず、たいへん明晰に差別の問題を話される。
そのときのエピソードがあって、解説にも書いているのですが、帰りに車で送ってもらったのです。当時竹田さんは中央線の沿線に住んでいたと思いますが、あの辺りは道が入り組んでいて、狭いですね。深夜だったので、ある通りからそこを横切る通りに出かかったところで、タクシーが走ってきて、警笛を鳴らしたんです。竹田さんは急ブレーキを踏んで止まったのですが、相手の運転手がずうっと睨みつけているわけです。竹田さんは苦笑いしながら、「なにもそんなに睨まなくってもいいのに」と言ったのですね。
なぜかそのことが印象に残っていて、こういうとき自分だったら「なんだあの野郎、睨みやがって」みたいな、そういう反応をするだろうな、と思ったんです。その印象をあとあと考えてみると、もしぶつかって相手の運転手が殴りかかってきたとしても、竹田さんの物事の処理の仕方というのはこういうものかもしれないと思い当たった。つまり、自分の非は非として認めつつ、相手に対しても、そんなに怒ってもいいことはないんだと説得し、分からせてしまうような、そういう処理の仕方だろうと感じたのです。それは、ちょっと自分にはできないな、と思ったのです。
ちょうどこの時期というのが、彼が『現代批評の遠近法』に収められた論考を発表していた時期です。なるほど、竹田青嗣はこうかと。あなたが怒るのも分からなくはないが、そんな怒ってばかりいと楽しく生きることはできませんよ、ということを納得させようとする強靭な精神と、強い思考に貫かれている。その基本的な構えを垣間見たような気がしたわけです。
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政治の世界でも保守と革新の対立があり、セクシュアリティの世界でも男の女の対立があり、哲学の世界でも主観と客観は一致しないという対立的な問題意識があるわけですね。二項対立の原理は物事を考え進める上での基本ではあるのですが、しかし対立のまま終始してしまえばただの泥仕合です。現に歴史上の言説は、それを繰り返してきているわけです。そのアポリアに気がついたとき、どうすれば不毛な対立を解決できるのか。その考え方を、竹田さんは徹底して追及している人だという気がするんです。そこが竹田欲望論のポイントだと思います。
なぜそのような対立が生ずるのか。それぞれの主張なり実感に基るづいた言い分には、それぞれがそれぞれに根拠を持つ。しかしどちらかの根拠に依拠して言い合いを続けるのではなく、どういう基盤からそうした二つの異なる立場が生ずるのかをしっかりと照らし出していけば、少なくとも、なぜわれわれが不毛な対立を繰り返しているのかという条件が明らかになる、まずはそういう共通了解に達することが大事だというポリシーを、彼ははっきりと持っている書き手です。
ぼくはそこが彼に惚れるところであり、ぼくにとって勉強になるところです。ぼくもものを考えるときに、なぜこういう考え方を人はするのか、なぜこう感じてしまうのか、そのことを明らかにしよう、そこからもう一度考えてみようとしているわけです。それは竹田さんから学んだところが少なくない。自分の信仰や心情にただ固執して、自分だけが正しいと言い張るのではなく――竹田さんは、天皇制を論じても在日の問題を論じても文学を論じていても、なぜ対立が生ずるのかについて理と意を尽くすわけで――そうした竹田さんのあり方は、本当の意味での強い思考だと感じますし、ぼくにとってとても勇気付けになります。
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竹田さんは哲学というターミノロジーの領域内で、いまお話した姿勢を貫きながら、これまでの形而上学の歴史をすべて総括し、「欲望」というキーワードをもとに、もう一度哲学を立てなおすという非常に壮大な視野を持って取り組んでいます。ぼくはその点、大いに期待しています。
彼は、フッサールの現象学の中にその可能性を見たのだと思うのです。ぼくはフッサールをよく知らないので、あまり立ち入っては言えないのですが、フッサールは独我論であるという批判をよく受けますね。しかしそれは事物の存在に対する確信というものがなぜ存在するのか、確信というものがなぜ成立するのか、その条件を見きわめるために、方法的、意識的にとった立場であって、特定の世界観ではないわけです。様々な哲学的解釈とか自然科学的世界観といったものをいったん判断中止し、意識のなかに内在的に与えられている所与――これを見て私は赤いと感じるとか、何かを言われて傷ついたとか――そういう意識や心情の所与というものは、正しいか間違いであるかは問題外であり、主観の中に映し出される体験として必ずあるわけです。それは主観的に感じたことが絶対に正しいということではなく、体験的な所与としてあることをまず認める。そしてそこから、意識の構造がどうなっているのかを分析していく、それがフッサール現象学の方法だと思うのですが、その方法のなかに、竹田さんは大きな可能性を見たわけです。
さらにそこに加え、ニーチェとハイデガーの考え方が、竹田さんの精神的資産として入っている気がするんです。単純に言うと、この世を徹底的に意味と価値の体系として捉えるという考え方ですね。主観にとって世界がどう見えるか。その見え方や感じられ方は、意味と価値の体系として現われてくる。客観世界は主観とは無関係に唯物論的にあるのではなく、かならずある色合いを伴っている。そしてその色合いを特定の色合いたらしめているものが、一人一人の欲望である。意味や価値とは関係のないただの事物と思えるものも、必ず意味付けられ、価値付けられたものとして現われてくる。しかもそこには普遍共通性がある。たぶんそれが竹田さんの捉え方です。ただ、これは必ずしも竹田さんの独創ではなく、問題はここから先の原理をどう展開するかですね。
フォン・ユクスキュルという生物学者がいますね。ヤドカリがイソギンチャクに対してどう対応するか。あるときには食料として食べてしまう。あるときにはイソギンチャクを乗せて運び、餌を捕ってもらい、そのおこぼれに預かる。そんなふうにいろいろな対応をするわけです。生物においては、環境と主体とのそのときどきの関係のあり方によって、世界の見え方が異なる。そういう主張をユクスキュールはしたわけです。その見方は人間という存在を考えるときにもおおきひんとになります。人間という生物種は、自分たちの欲望と性の目的に従ってこの世界を切り取り、色づけているし、ナメクジにはナメクジの、ダニにはダニの世界の見え方がある。
つまり人間はどういう意味と価値の体系を持っているのか。どういう欲望の体系をもってこの世界を見て、世界に関わっているのか。そのことを解き明かそうとしているのが、竹田欲望論だと思います。それが原理的にかつ総合的に展開されたら、すごいことだと思います。(談)