柏木 大安
二〇〇二年度より実施される学習指導要領改訂において、学習内容が三割削減されることになった。児童・生徒の学力が低下するとして、新聞や論壇誌などで学力低下が懸念され、多くの議論がされている。この件で議論の中心になっているのは大学の教員である。「ゆとり教育」路線によって、そうでなくても入学してくる学生に基礎学力がなくて困っているところへ、これ以上教育内容を削減してしまったら、生徒の学力低下はどうなってしまうのか、というのが彼らの立場である。おそらくこれらの議論に賛同している人はかなり多いのではないかと思われる。しかし、教育現場の現状からみると、学力低下の問題の根本は、教育の「量」の問題というよりは、教育を受ける主体である学生が、勉強に対する関心を失ってしまっていることにあるのではないか。
「なぜ勉強しなければならないのか」という疑問の声が、学生の側からよく聞かれるようになったという。学生がそのように問うこと自体は決して間違っていない。おそらくその答えはすぐに得られるものではなく、その問いを抱きつつ学んでいくことによって少しずつ見つけていくべきものなのだと思う。しかし問題は、この問いに大人の側が正面から向き合っていないことにある。問いに答えることが簡単でないことは言うまでもないが、「こども達が勉強しなくなった」と嘆くだけで、それ以上のことをしないというのでは困る。答えとはいかなくても、自分の言葉で応えることのできる大人があまりにも少ないのではないか、と思わざるを得ない。そもそも今回「学力低下」の声を上げている当の大学人が、学生にちゃんと教育できているのか。
浅羽通明氏は『大学で何を学ぶか』(幻冬社文庫)の中で、まじめな新入生が大学の授業に臨んで否応なく感じさせられる不条理を次の五つに要約している。
また、大宮知信は『学ばず教えずの大学はもういらない』(草思社)の中で、大学教員は教育に対する関心がなく、講義を「雑用」とまで考えているのが多いことを指摘している。大学教員は研究実績は評価されても、教育についてほとんど評価されないのが原因らしい。「学び」に対して自己評価もできていない状態では、「何故学ぶのか」と問う若者達に応える教育を用意するのは難しいのではないだろうか。しかし、彼らが重視して日々努力しているはずの研究も「たこつぼ化」して専門に関して無知だったりすることも多い。中には研究実績をほとんど残さない教授もいるそうだ。そうした大学教授達が小、中、高の教科書を手がけているのだから、時代の変化にも対応できず、その結果学ぶ側の実態に即した改善がされることもない。
大学は知の頂点としてではなく、若者に企業が採用で活用するラベルを貼り付けるための選別機関として機能している。教授自身も自分の研究や講義が社会的な価値がないのに気がついているのか、講義に出てこない学生にちゃんと学べと強く言えず、ほとんど何も学ばない学生を簡単に卒業させてしまう。学生は教授の役に立たない研究や講義に少しだけつき合い、サークルやバイトなどで人間関係を学んで卒業していく。学問的な知識は企業にとってはむしろ邪魔な場合が多いのだそうで、こうした状態の方が都合がいいのだという。
しかし、こうした学問の姿を学生が納得しているわけではない。学生達の「何故勉強しなければならないか」という疑問は、日本の知の問題点を鋭く突いていると言える。そして学びの現状を直視すれば「勉強しなくたっていい」という答えが多数派になるのは自然な流れである。残念ながらこの原因は、「学び」の思想の不在にあると言わざるを得ない。「学び」に対する再考は今急務であるが、おそらくそれを学問的な権威に任せておいてもだめなのだろう。
その中にあって、竹田青嗣氏は大学人としては例外であり、「学び」について少なからず我々に示唆を与えてくれる。竹田氏は、思想は言うに及ばず、文芸評論や在日問題の方で活躍されているが、私は『ニーチェ入門』『プラトン入門』(以上ちくま新書)、『現象学入門』(日本放送出版協会)など、主に哲学の入門書で前から存じ上げていた。また、明治学院大学教授では教授として大学生相手に哲学講義を行っているほか、朝日カルチャーセンターなどで一般の人にも哲学の講座を持っておられる。今まで、あまり自分の関心のある分野以外の本を読んだことのない私だったが、本誌『樹が陣営』で竹田氏のことを知り、講座に参加したことがある。そこで見た竹田氏の姿は、難解でよく分からないという、当初私が抱いていた哲学の印象を大きく変えるものであった。
竹田氏は哲学者としての態度は基本的に守っているものの、それを個人の生き方、あり方を問い直す「思考の技術」として活かすことを目指しているのが特徴である。
《哲学は言葉によって「世界が何であるか」を祖述しようとしてきた。そこに哲学の最後の目的があったとすれば、哲学ははじめに不可能な目的を設定したと言える。「世界がなんであるか」についての普遍的な”真理”は存在しえないものであるとし、したがって言葉によって祖述することは不可能なのである。
つまり、哲学の歴史はまた、言葉と「世界認識」との間に存在する矛盾を追いつめ、その目標の不可能性を論理的に露見させるような歴史でもあった。こうして哲学は、世界についての一致した”共通見解”を見出すという作業を科学に譲り渡すことになったのだ。ではそこで哲学は自分自身の存在理由を投げすててしまったのかというと、そうではない。哲学は世界を「正しく」捉えようとして言葉を極限にまで追いつめ、そのことによって人間が言葉を用いて自他を捉えようとする”意味”そのものを追いつめたと言える。これを詮じつめると、哲学的な言葉の使用がわたしたちに最終的にもたらすのは、結局哲学するものにとっての(註:傍点原文個所を強調文字で表示)自己了解、自己と他の”関係の了解”ということなのである。
(中略)哲学の目的は、世界は「正しく」「完全に」認識することにあるのではない。そういう出発点があったとしても、その目標は原理的に不可能なものだ。むしろ哲学はそれを生きてみる人間が、自分自身を絶えず新しいかたちで了解し、そのことを通じてより深く生きる、そういう道のひとつの手だて(=技術)をもたらしてくれる(もちろん哲学だけがその手だてではないが)ものなのである。》
(竹田青嗣『自分を知るための哲学入門』より)
私が講座を聴講したときも、竹田氏の説明は、哲学の素人である私がはじめて聞いても理解できるほどわかりやすいものであったし、講義の休憩中にも教室に残り、初学者である私が素朴な質問をした時にも丁寧に答えてくれた。それだけでなく講義終了後も待合室に場所を移し、聴講者と会話する機会を持っていたのが印象的だった。また、私は参加していないが、講座に参加する受講生と合宿を行い、講義の他に各人の経験を現象学を使って検討するといったことをやるそうだ。
竹田氏は現象学、特にフッサールを中心に研究を行っている。現象学は人の思考について考えていく際、「独我論」を出発点とし、「確信成立の条件は何か」と問うことによって、主観―客観という哲学の根本問題を解き明かそうとする。竹田氏は、フッサールの現象学は長く「独我論」であるか否かで論争が行われていたが、それは「現象学に対するひどい無理解からきている」ものであり、主観―客観の問題を解決するためには、むしろ「独我論の立場を”出発点”とするべきであり、それ以外の立場は原理的に問題を解くことができない」からだという。物を見たり考えたりすることがどういうことか再検討した上で(独我論)、その上で他者との共通点や差異を見出していく(「主観―客観」問題)という思考の流れは、哲学や思想をすべて理解しようというモチベーションがなくても比較的理解可能であり、それを学ぶ人にとって、新たな視点を提供するものである。(私はまだ現象学を深く理解しているわけではないので、詳しくはその竹田氏が『現象学入門』などで説明しているのでお読みください。)
竹田氏がフッサールについて正しい解釈をしているのだとしても、他の哲学者とは異なる解釈を示し、それが「思考の技術」というベクトルを持っている。そのことを考えれば、竹田氏が提示するフッサール現象学はすでにもとの哲学思想を越えて竹田氏のオリジナル思想「竹田現象学」と言っても良いのではないか。少なくとも私はそう思って竹田氏の『現象学入門』を読んだ。そしてそのように提示された哲学は、より現代の我々に対応した、学ぶ側にとって役に立つ現象学となり得るのではないだろうか。
四冊出ている『竹田青嗣コレクション』には、一九八〇年代を中心とした氏の作品が多く掲載されている。それらの作品を見ると、難解な哲学分析が多いな、という印象であったが、一九九〇年の「しごとの周辺」では、カルチャーセンターで講義を持つようになった時のこと、「哲学の風景」では『自分を知るための哲学入門』を執筆した時の事が書いてある。その中で、哲学や思想を、今まであまりそうしたことに接した事がなかった人たちに伝えていくことの必要性と難しさについて語っている。また、氏は明治学院大学の教授として、学生と接する機会を多く持っている。竹田氏はこうした経験から、ものを考える技術としての哲学の必要性を認識し、思想を展開させていったのではないだろうか。
私は、このように哲学、思想だけでなく学問全般において、自己の探究する分野を同業者の中に閉じこめるのではなく、一般にも理解できて役に立つものとして捉えようとすることの意味は小さくないと考えている。
私は竹田氏の哲学に対する取り組みを見て、プラグマティズムの代表者ジョン=デューイを思い浮かべた。デューイは、人間の日常生活に着目した哲学者であり、知識・概念・理論について、それらを「道具」として捉えた。人間は何か問題を感じたとき、その問題を解決しようとして思考を始める。現実をよく観察し、自分の置かれている状態を認識する事によって問題の原因を見いだし、更にそこから未来の予測や推測を行う。その思考は何らかの知識や概念を利用することになるが、それらを利用することによって問題が解決されるかどうかは結果を見なければ分からないのであり、問題解決の過程における思考は「仮説」に過ぎない。そして思考は問題解決の過程、または次の問題解決のために絶えず変化していくべきものである。デューイのこうした知識・概念の捉え方は、むしろ人の価値が多様化している現代においては必要な考え方ではないか。おそらく、哲学や思想をある程度崇高なものと捉えることはその価値を維持する上で必要だろう。しかし、それだけでは普通の人は哲学を難しいものと考えてしまって近寄ることができないだろう。だから、「道具」としての側面が提示されることはやはり必要なのである。竹田氏の目指す「思考の技術」としての哲学はある程度デューイの思想に通じるものと言えるだろう。それは単に彼の著作や講義内容だけでなく、学ぶ側との対話を重視する実践的な態度として現れているのである。
しかし、残念ながら大半の大学教員はそのような考えには全く及ばないようだ。浅羽氏が指摘するように、大学では、現在においても入学してきたばかりの生徒に自分の研究を押しつけるだけで、新しい知を求める学生達に何ら配慮をしていない。しかし、若者が学歴のためだけに大学に入学してくる時代はすでに終わった。終身雇用が壊れてしまい、社会で生き残っていくために、役に立つことを教えてくれる大学を求めている。特に大学全入の時代がやってきているわけだから、これからの大学は選ばれる側になるわけだ。役に立つ知識を教えられない大学は淘汰されてしまうかもしれない。そうした時代を生き抜くつもりであれば、「学生が勉強しなくなった」と嘆く前に、まず学びを提示している自分自身を一度問い直してみる必要があるのではないだろうか。何を伝えればよいのか?どのように伝えればよいのか?考えなければならないことは無限にあり、答えを見つけるのは一朝一夕ではない。それが「教育」というものだ。常に一般の人や学生と対話する時間を多く持つ竹田氏は他の知識人に、暗にその事を提示しているようである。
【参考文献】
大宮知信『学ばず教えずの大学はもういらない』(草思社、二〇〇〇年)
浅羽通明『大学で何を学ぶか』(幻冬社文庫、一九九九年)
竹田青嗣『現象学入門』(NHKブックス、一九八九年)
竹田青嗣『自分を知るための哲学入門』(ちくま学芸文庫、一九九三年)
竹田青嗣『恋愛というテクスト』(海鳥社、一九九六年)
ジョン・デューウイ『哲学の改造』(岩波文庫、一九六八年)