竹田 青嗣
3月2日の朝日新聞、最近の「反戦デモ」をめぐる「三者三論」で、橋爪大三郎氏の意見が乗っていて、私としてはとてもよいと思ったのだけど、一般的にはなかなか通じにくいように感じた。橋爪氏の意見の大筋は以下のよう。(この記事は武力行使前。)
ほぼこれが、わたしの見るところの橋爪氏の趣旨であって、現在の、戦争状態に対する強い非難と憂慮の論調が一般的である場面では、ほとんど届きにくい声になっているかも知れない。しかしこのような考え方は、いま、とても重要であると思うので、以下は、これに付け加えてみたい私の「哲学的」な考え方を述べてみる。
「戦争」とは何であり、何故起こるのか、ということがまず考えられねばならない。ここで考えの違いが大きく異なると、もう戦争をなくして行く原理は決して出てこないだろう。
戦争は、共同体と共同体、つまり民族と民族とか国家と国家といった関係で生じる、力による利害関係の解決である。たとえば、これまで強力な統治権力が存在していたものが、とつぜんなくなるとどうなるかというと、ソ連の場合のように、まず民族対立が出てくるし、市民社会レベルでは、実力をもったグループ(マフィアのような)の抗争が必ず出てくる。個々のグループが存在しているとき、これを統合的に調整する強力な政治原理がないかぎり、個々のグループは「死を賭した闘い」(ヘーゲル)を行う。そんなことをしなければいいのにと思うかもしれないが、ほかに手だて(=原理)がないのだ。
典型的には、中国の春秋、戦国時代、日本の戦国武将の時代をイメージすればよい。実力をもったグループの首長(武将)たちは、「死を賭した闘い」のトーナメントにエントリーする。エントリーしないものは、より強いものの配下になり従属民とされる。力に自信をもった首長たちは、隷属を嫌い、勝ち続けようとする。闘いは、大抵は、甲子園大会のように、最後にただ一人の最終的な勝利者が残るという形でようやく決着する、ということになる。
このとき、「死を賭した闘い」は終わり、天下人や皇帝が生まれこの巨大権力によって、普遍的な「死を賭した闘い」の状態は終わる。秩序と安寧がはじめてもたらされるが、その代わりに、巨大な三角形型の支配構造が残るのである。(それでも大部分の人々にとっては、絶えざる戦乱状態よりはよい条件であり、人々は死を賭した実力の闘いにエントリーしてたった一人生き残り全てを手に入れた人物を、この上ない業績として讃える。)これが絶えざる戦乱状態がおさまることの、原型的な「原理」。
しかし、それでも、この秩序と支配の状態はつねに不安定要因をもつ。「内部的権力抗争」「民族や宗教的な分派的闘争」そして「国家間の勢力争い」。近代以前では、この三つが中心契機。だから、人間社会は、つねに唯一者支配帝国の類型を生み出してきたが(中国、エジプト、日本、インド、ペルシャ等々)、それでも決して世界から「戦争」「紛争」「抗争」の可能性はなくならなかった。
いまみたことから、戦争がなくなる(少なくなる)原理(「抑止原理」)と、なかなかなくならない原理(「誘因原理」)を、すぐに取り出すことができる。
「抑止原理」は、異質な共同体ができるだけ統合され、中心に巨大権力が成立し、そのことで、「私闘」(個別的グループどうしの実力による利害抗争)が禁止されることである(この原理についてはニーチェ)。原則としてはこれ以外には原理はない。近代以前では、この状態は、必ず「死を賭した第一人者への闘い」のゲームによってのみもたらされた。決して闘わない平和な共同体もあったはずという考えは、ロマンティックな物語で、異質な共同体どうしが接する場面では(不安のために)、ほかにどんな社会関係の原理も存在しない。
しかし近代社会は、この「原理」をまず大きく変える。近代社会の政治統治の原理は、「死を賭した第一人者への闘い」の代わりに、社会の成員の全員が自分たちの「一般意志」として、一切の「私闘」を禁止する威力として近代国家の政治権力を置く、という点にある。死を賭する実力のゲームを営もうとする人間は誰であれ、実力によって罰せられ、排除される。また、この政治権力の実力行使によって、各人は各人「自由」を「相互承認」している状態に置かれる。死を賭した闘いではなく、一定のルール(成員が対等の権限で作り出した)のもとで、政治や経済や文化のゲームが営まれる。これが近代の市民社会と近代国家の「原理」である(もちろん実際には先進国といえどもまだまだそうなっていない。またこれは、現実の社会にとって、つねにそこへ向かうべき「理想の理念」というのではなく、つねにそれによって社会構造の可否が判断されるべき公準である)。
こういうわけで、成熟した近代国家では、それがまた戦争状態(内乱)にもどる可能性はきわめて低くなる。しかし、もう一つ残る大きな問題。それが国家間の戦争状態。
国家間の戦争の「抑止原理」。まず専制国家(ファシズム・スターリニズム国家・専制的王国・専制的民族国家)ではなく民主主義国家が増えること(戦争行為の決定がますますむずかしくなる)。一般市民の生活水準が上がること(一般市民にとって、戦争のリスク・デメリットが、それによって得られる利得より大きい)。社会の階層構造、支配構造の流動性が高いこと(絶望がたまるほど、死を賭するゲームを引き起こす動機が高まる)。またこれは国家間の格差も同様。
将来的に、人類社会から「戦争」がなくなる条件はありうるか。「原理」は存在している。世界全体が民主主義国家が増え、個々の国家の人民の生活水準があがり、国家間の格差が絶えず縮まるだけでなく、上のものが下に落ち下の者が上へゆくという階層貫通的流動性が高まれば高まるほど、「死を賭しても、自分の絶対的欲望を実現しよう」と欲する人間のゲームの場所と条件が小さくなる。
ちなみに、彼らは自分のことを「悪」だとは考えていない。なぜなら、彼らは「多くの人間は死を怖がって闘いを恐れる。自分が死と栄誉をルーレットに賭けている。自分の死を賭ける人間を恐れる人間たちどうしのルールによって拘束することはできず、したがって一切は許される。これは正当化ではない」と考えるからである(この理論は誤りと言えない)。
ここまでくると、戦争がなかなかなくならない原理(「誘因原理」)もはっきりする。現代社会で言うと、いまでは南北格差の漸次的な拡大による絶望の蓄積。それがあらゆる救済思想(民族主義、人種主義、原理主義的宗教、スターリニズム)に結びつく。またそれは、諸民族や諸宗教のゆるやかな統合を妨げ、基本的には、専制国家、独裁国家の権力基盤となる。危機と救済の思想が現在の専制権力の基本的な土台であるから。
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以上は、近代哲学と世界史が教える、「戦争の条件についての原理」である。これらの原理に決定的な間違いがないとすれば、今回の事態は、以下のように考えられるのが妥当であるように思える。
まず、「戦争の原理」について。単なる「平和主義」は、戦争を抑止する原理をもたないということ。
「平和主義」は戦争抑止の原理にならないか、というとそうではなく、大きな抑止原理である。ただしそれは「近代国家」どうしの関係において、という限定がいる。
見たように、近代以前は、「戦争」をなくすための決定的原理はほとんどなかった。「戦争」が起こらない基本要因は、大きな権威と権力が安定的に存在しているということ以外にはなく、したがって、国家どうしの利害対立が露出する場面では、圧倒的な力の差があるのでなければ、これを防ぐ原理はなかった。これは現代社会を見れば分かる。
現代社会では、先進国家どうしでは、「戦争」はもはやきわめて起こりにくくなっている(ときどき日本は戦争に向かっているという人がいるが、そういう人はたいてい社会主義革命の義を信じていた昔のわれわれの仲間で、われわれはずっとそう言い続けてきた)。その理由は、市民たちはが自分たちの生活を第一義として、さまざまな点でリスクの大きい戦争に賛成する理由をもたない。したがって、政権が戦争を起こそうとしても大勢の人がこれに反対するので政府はまずこれを強行できない構造になっている(強権発動型に見えるアメリカでさえ例外でなく、数千人単位の市民や兵士の死傷者が出たら、もうそれ以上強行はできない。為政者もつまりは「臨時雇い」なのでそこまで強行する理由をもたない)。
したがって、民主主義的国家における国民の「平和主義」は、近代社会に現われた戦争抑止の最大の原理の一つであると言ってよい。
ところが、にもかかわらず、今度の情勢では、先進国の国民の「平和主義」は、世界全体の戦争条件としては、その「抑止原理」となっているとはなかなか言い難い。
その理由。
「戦争反対」の主張は、実力行使を行わなくても、このような仕方で必ず武力を解除できる展望があるという議論を示せないことが決定的に弱みであり、そのため現象として単なる「平和主義」に近づいている。
フセイン政権や金正日政権は、大量破壊兵器の開発がその独裁権力を支える大きな基盤になっている。その意味でこれらの政権は「死を賭するゲーム」にその基盤を置いている。
アルカイダは、ひょっとすると現代の資本主義世界の現状への異議申し立てと、その改革の可能性の理念を自ら信じているかもしれない。しかし、もう一面で、人々の絶望の深まりをその権力の絶対的基盤としている政治セクトであるという性格をもっている。彼らは人々の絶望があるかぎり自らを「正当化」できる。だから、富み栄えた先進国と、絶望を権力の基盤とする政治権力との間では、「平和主義」は、戦争抑止の原理に全くならないのである。
これにはいくつかの原理がある。100人の人間のうち、99人が「闘いたくない平和主義者」で、たった一人が「死を賭する覚悟をもった好戦主義者」だったとすると、世界は、その一人を絶対支配者として生み出す。死を賭する人間が5人であれば、この五人の闘いのうちから一人の絶対配者をうみだす。100人の社会から絶対的に「闘い=戦争」を抑止する原理は、残りの人間が、個人的な闘いは決して行わず、死を賭する闘いを行おうとするものがいるときは、必ず結束してこれと闘う覚悟をもっていること、である。そしてこれ以外には原理は存在しない。「絶対平和主義」は、「たとえ殺されても殺したくないのでそれは受け容れる」という覚悟があるときだけ成立する。実質的な思想としての「平和主義」は、「平和」が保たれるための最善の原理と条件を作り出すという考え方である。
ちなみに、私は、大量破壊兵器の開発が自国へのテロの驚異に密接に結びついているために武力行使を急ぐアメリカと、もっとぎりぎり遅くまで待つほうがよいとするフランス、ドイツのどちらが実質的に「平和」の抑止原理にかなっているか、決定的な判断をもてない。十分な情報をもっていないと感じるためだ。国連の決議を取りつけないまま武力行使を行ったことはやはり望ましいことでなかったと感じる。しかし全体としては、英米は単に自国の利益を武力によって開発するために、という古典的な戦争理由で武力行使を行ったのでないことは明らかである。アメリカは巨大な力をもち、おごっている面もたしかに見えるが(南米政策など)、しかし世界制覇をねらってもいないし、そのようなシステムももたない。また全体として、ヨーロッパの先進国が「サンクション」の基本線をもっていることは明らかであり、今ある違いは、アメリカ覇権主義とのバランスや、比較的短期の各国の利害関係であろうと思う。
ともあれ重要なのは、専制国家による大量破壊兵器の開発が厳しい「サンクション」の対象となるという事例と流れが国際的に定着することは、人類の未来の戦争抑止にとって不可欠の契機であると考える。そして、そのような方向以外に、戦争条件が低くなる展望があるという説得力のある議論を、まだ耳にしたことがない。
思想的な「平和主義」は、戦争がいっそう減少する原理と条件を作り出す努力を伴わなくてはならない、と言ったので、私の考え方を提出してみる。
現代社会の「戦争」の最大の要因は、大国による弱小国の支配や、国家どうしの利害対立という古典的な形では存在しない。むしろ先進国と後進国(貧しい国)の格差の拡大が、貧しい専制国家の人々の絶望を高めるところにある。この絶望は専制政治の権力基盤をますます強めるだけでなく、過激政治組織の超国家的拡大をも可能にする。それは武力的緊張をつねに高めるように機能する。
分かりやすくするために最大の危険を考えれば、核兵器を開発した専制国家や過激組織が、これを威嚇的に使用して政治的取引を行おうとする。この取引は、それらの権力基盤をますます増大するという悪循環を絶とうとして、たとえばアメリカのような強力な力を持った国家が、より大きな「力」でこれを押さえ込もうとする。もちろん、双方ともカタストロフィまで行こうととは思っていない。しかしそれはかけひきであり、絶えざる力のバランスであり、一歩間違うとカタストロフィが生じうるような状態が、世界の常態となる。経済状態はますます不安定となり、諸国家はますます自国防衛的となり、そのしわ寄 せはまず貧しい国へとかかり、したがって格差はいっそう拡大しいっそう絶望が深まり、専制国家はますます権力基盤を強める……(第二次大戦は、世界恐慌に端を発した、相互的な自国防衛経済によって、決定的に貧しくないが圧迫された二流国である日本、ドイツ、イタリア、スペイン国家のファシズム化から生じた)。
ともあれ、これらのことを前提として考えて、現在「戦争」を抑止する基本的な原理は、大きく二つである。
一つは、核や大量破壊兵器の拡散の危険に対しては、もはや相互に「戦いを望まない国家」どうしが結束していざとなったら武力を使ってでも「サンクション」を与えるというルールを明確にしてゆくこと(先進国だけ核をもっているのはずるい、といった主張は、全く先の見えない主張で、思想ではなくまずルサンチマンの解放を考えている)。いいかえれば、「死を賭する闘い」をしようとする者は、全体の合意によって必ず「サンクション」が与えられるというルールを確立すること。
しかしもちろんこれだけではだめである。もう一つ必要なのは、貧しい国家の人々の絶望を理解し、先進国家どうしで結束して(先進国だけがその能力をもっている)、格差の縮小の努力を持続的に、かつ計画的に行うこと。その努力と態度と実効を絶えず示すことである。わたしは、アメリカが、われわれから見て強引と思えるほど武力行使を急ぐ点については、実際にテロ攻撃を受け、しかもそれが核兵器などと結びつく現実的可能性を実感していることを思えば、ある程度その心意を“理解”できるように思う。しかし、先進国と貧しい国との絶対的な富の格差を縮小していく努力の必要という点では、多くの国の反感を買う現実的な理由があると考える。
武力による強圧たけでは、人々の絶望と怒りを掻き立て、それは結局、まさしく貧しい国家における専制的権力者、および過激政治党派の実権者を利するだけだからである。その権力基盤は大国と豊かな国に対する一般民衆の反感にあるからだ。
アメリカおよびヨーロッパ先進諸国は、上の二つの態度を、同時に、並行的に、明確に示すことが必要であるし、それが最も原理にかなっていると思う。一方で、いざとなったら実力による「サンクション」も辞さないというはっきりした態度を示し続けること、しかし一方で、平行して、南北格差を持続的に縮小してゆくための先進国会議を立ち上げるか、あるいはサミットの中に、もっと具体的に個別的主題と目標を設定するような提案を行い、その方策を示し続けること。どちらか片方だけでは、いずれも戦争抑止に対して大した効果を上げられない。前者だけでは人々の絶望を増大するだけであり、後者だけで も、また専制支配者の思うつぼだからである(専制権力者は、その体制が続くかぎり、先進国の援助などをつねに私服化する。絶望や不満を一定のバランスで持続することがつねに彼らの利益ある)。
わたしはもっと短く要点を書くつもりだったが、ずいぶん長くなってしまった。それでもいったん書き始めると、多くのことを言いそびれている気がする。だが、ともあれ、結論を置いておく。
人間は「性善」か「性悪」か。このような問いは、誰もがそこをまず通らないわけにいかなが、思想的(哲学的)には遠くまで行けない。戦争に「反対」か「是認」か。これも似ている。人間は「性善」か「性悪」なのではなく、ある条件のもとでは必ず「悪」となるし、べつの条件を与えれば必ず「善」を欲するような存在である。そうでない人もいる、という意見は最も駄目な意見である。たしかに、そうでない人もいる。しかしそのような人間は「例外」、と考えなくてはならないのである。
戦争に「反対」することは、先進国の市民としては、つねに大事な倫理的社会的意義をもっている。つまり、自国の政治権力が、自国の経済的利害で戦争を起こしたがっているとき、われわれは、いつでも必ず「反対」すべきである。そのことがわれわれの国家の市民社会性を支えている。しかし戦争に「賛成」か「反対」か、という問いは、思想の問いではない。国家や人間社会は、ある条件の中では必ず戦争を生み出す。しかしべつの条件を作り出すことができれば、必ず戦争はなくなる。その条件と原理を考えない「平和主義」は、人々の自然な倫理感をあてこんだだけの、悲しい、人気取りの平和主義である。
将来の人類の社会状態や平和の条件について、哲学的な思考をとりもどす必要があると私は考える。われわれは余りに長く、現実の矛盾に対する「対抗思想」の中で生きてきた。思想は人々のルサンチマン(怨恨、反感)をその「正当性」の根拠としているが、しかし思想の中でルサンチマンが勝利すると、思想を殺してしまう。社会の思想においても、人間の思想においても、原理と条件の思考を取り戻さなくてはいけない。
わたしは、「戦争」の条件という問題の「原理」を、哲学的に、「死を賭するゲーム」という概念で語った。「死を賭するゲーム」を行おうとする人間は恐るべき「悪人」で、そうでない人間は美しい「善人」だと考えるのは、ひどく想像力のないことである。どんな人間も、自分の力と欲望とまわりの関係の条件において、いずれにもなりうるような存在だからである。したがって、「死を賭するゲーム」が社会的に減少してゆく原理と条件は何か、というのがわたしの示した問題設定である。だれかもっと本質的な問いを設定してくれれば、わたしの設定は無効になる。
最後に一つ。以上のような考えは、自由主義、民主主義を基調とする現在の世界体制それ自体を否定し、この体制全体が代わるべきであると考えている人々にとっては、ほとんど耳に入らない現状肯定的議論ということになるだろう。そのような人は、もうお手上げである。
わたしもまたずっとそのような世界観念をもっていたので、その感覚はよく知っている。
現体制は間違っている。というのは、いまでは一つの「イデオロギー」になっている。かつてはマルクス主義がその理念と理論を支えた。現在は、理念と理論が挫折したので、正しさのパトス、「正しさ」についての「心の義」となっているのである。
そのような人は、「正しさ」についての強固な確信をもっている。現代の世界は「誤って」おり、これに反対することに「正しさ」がある。しかし、わたしは言わなくてはいけないが、その「正しさ」は検証されていず、ただ強い心情として存在するだけである。それが世界を、「正しい世界」と「間違った世界」に区分する。これが近代以降の「イデオロギー」の基本構造なのである。
わたしの考えを言うと、自由主義、民主主義基調とする現在の世界体制は、この上なく正しいというわけではないが、しかし近代社会の基本理念から出てきたものであり、いまのところこれに代替しうる社会原理は、現在まったく存在しない。これまでいくつか登場したが、それらはいずれも、試されはしたがすべてかなり悲惨な形で失敗し挫折したのである。(そのバリエーションは延々と続いているが)
現代社会は、この「近代社会」理念をいかにより深く成熟させていくかという課題の途上にある。現代社会のいろんなことが、ますます近代社会の基礎理念をどう考えるかということに深くかかわってきている。「戦争」の問題一つとっても、もし近代社会の理念を否定するなら、われわれはたんなる「理想主義的反戦主義」というまったく先の展望のないものに落ち込むほかはない。
近代社会は、各人の「自由」(生き方の自己決定)を実現しつつある。しかし「自由」の実現は同時に新しい種類の大きな「不平等」を生み、そのことによって深い「絶望」をも生みつつある。「自由」の原理が、同時に大きな「不平等」を克服するような新しい原理と結びつかなければならない。わたしとしては、この「原理」は見出せるし、そうであるかぎり必ずその条件は徐々に作り出せるものである、と信じている。(以上)