竹田青嗣 講師紹介


明治学院大学国際学部
『研究書年報』No.3

近代哲学再考──現象学的覚書き

竹田 青嗣

    *

  哲学の理解にとって、個人的経験というものがどの程度の意味をもつものか、わたしはよく知っているというわけではない。わたしがとくに愛読する哲学者たち、プラトンについても、ヘーゲルやニーチェやフッサールについても、彼らがどのような微妙な個人的動機から哲学に足を踏み入れたか知らないからだ。ただ、自分自身の場合は、明確なきっかけがある。
  いまは何の混乱もないというわけではないが、とりわけ混乱のひどかった青年期に、わたしはたまたまフロイトの『夢判断』という書物にぶつかった。恐ろしい吸引力をもった著作で、わたしはたちまちミニ・フロイディアンとなった。ある意味ではわたしにとってこれがはじめて出会った強力な「西洋」の思考だった気がする。そしてそのあと、フッサールの現象学にぶつかった。両者は、極めてタイプの異なった思考の両極に位置するものだった。フロイトの思考は「物語」の威力を最大限に引き延ばしたものである。これに対してフッサールは、まったく逆に一切のフィクションを取り払って「原理」として確定できる思考だけを取り出そうとする。当時、わたしの中で「自己」というものが壊れかけていたのだが、これをなんとか建て直し了解する上で、両者はまったく異なったタイプの思考のモデルを示してくれた。結局、フロイトではなく、フッサールがわたしにとってより重大な役割を果たすことになった。

    *

  わたしは文学の仕事もしてきたので、「物語」の威力の本質について自分なりに知っていて、これを軽んじるつもりはない。わたしがフロイトの思考ではなくフッサールの思考を必要とした理由は、明らかで、わたしの「自己」の壊れは、いわば「物語」の病(=ヘーゲルでは「不幸の意識」)に由来するものだったからである。ヘーゲルによれば、「不幸の意識」は、強力な物語(規範的自己像)と現実の自分のあり方の間の、乖離と分裂に由来する。「物語」によって生じた病を「物語」によって治癒すると、悪無限的自家中毒に陥る。フッサールは、一切の「物語」をいったん消去する方法なのである。

    *

  ありていに言って、これがわたしのフッサール理解の第一前提である。人間は自分自身について「自己像」をもち、世界について「世界像」をもっている。そして、それを自明のものと考えるか、ロマン化し、信念化したりしている。それを自分の現在的価値=身体性として是認しながら、同時に、他の多様な価値=身体性との関係において相対化することは、決して容易なことではない。
  しかし、まさしくそのことを、「超越論的現象学的還元」の方法の名において、フッサールは要求する。像と物語は、われわれの価値=身体性の自然与件である。これを端的にに取り払えば、人間は、外的世界への関心=欲望とエロス的対象を失って文字どおりの自己喪失が生じる。そこで現象学ではこれをいわば“括弧に入れる”。「物語」や価値=身体性を端的に“抹消”するのではなく、その「確信成立の条件」を吟味する。これはおよそ、諸信念の根拠の検証ということを意味している。

    *

  自分がすでに身につけている価値=身体性や「物語」(=アイデンティティ了解)の「根拠」を十全に解明できるかどうかは、一つの哲学的難問である。もしこれが自己内思考に閉じられているなら、不可能だと言うほかない。現象学はこの問題の困難を予想し、そこから「間主観性」という概念を作り出している。「間主観性」の概念の核は、自己了解と他者による了解との間の弁証法的展開以外には、自己了解の進展のプロセスはありえない、ということである。これは人間が自分の価値=身体性や「物語」性をいかに了解しうるかについての核心的原理である。しかし「現象学的還元」の方法は、その前段階的な前提を支えるものだ。人間は、誰でも、自分の諸思念、諸確信の「根拠」について、これを把握し、確証できるか。この問いについての現象学の答えが「還元」である。「還元」の方法は、これに対して原理に可能である、と答える。しかし、全面的に一切の根拠が明らかになる、というのではない。「還元」の方法によってのみ、この「根拠」の判明性の境界線が了解できる、というのである。

    *

  これは、世界と自己という対象についての一般的な了解可能性の「原理」である、と考えてよい。ある対象について把握するというとき、この了解可能性の原理をどう考えればいいのか、現象学は、一切が判明に理解可能であるか、そうでないか、という問いを廃棄し、どこまでが判明な了解が可能でありどこからが判明でなくなるか、このことについては明確な境界線が確定できる、という原理をおいたのである。わたしはこの現象学の「原理」を十全に理解したと感じた。この理解は、哲学的な「原理」ということについてはある判明な理解のモデルとなった、同時にそれは、わたしの中で、近代哲学の諸学説の理解について、決定的な意味をもっていた。

    *

  近代哲学の世界理解の努力は、伝統的キリスト教の「世界像」をいったん“消去”(括弧入れ)し、その一切の信念根拠を、一から検証し直すことであった。何が判明と言えるものであり、何が「物語」や「臆見」で構成されているのかを検証しなおすことであった。
つまり、諸信念の一般的妥当性の境界線を明確に引こうとする努力だった。こう考えると、ながく実在論的合理主義の観念的転倒と見られていた近代哲学の「観念論」的性格の位置づけがまったく変更されるべきことが分かる。
  近代実在論(唯物論)は、スコラ哲学の実念論的世界像に対して、近代的な実在論的世界像を対置したわけだが、近代哲学の観念論は、世界像の「妥当性一般」の原理論を志向していたことが理解できる。

    *

  わたしが現象学と出会ったころから、現象学は「真理の基礎づけ」の学として、現代思想では批判の的となっていた。これは、近代哲学の諸学説が、自閉的な「観念論」的体系の内部で構築された絶対的「真理主義」に陥っている、という現代哲学諸派からの批判と軌を一にしている。わたしは現象学の理解から出発したので、この批判にまどわされることがなかった。要点は、どの説が、一つの「物語」に別の「物語」を対置しているか、またどれが「世界像」(=物語)の妥当性の一般理論を作ろうとしているか、を読みとるということだからである。
  マルクスは、経済原理を中心とする社会構造の「一般原理」をうち立てようとした。この仕事は非常に良質で普遍性をもつものである。マルクス主義はこれに対して、その八割が、近代国家のナショナリズム的「物語」や帝国主義的諸「物語」に対抗する、カウンター「物語」によって作られている。いったん、現象学的原理がつかめればこれを理解するのは困難なことではない。
  ポストモダン思想や分析哲学や深層心理学が、どの程度「物語」性を持っているか、一目瞭然であり、またその「物語」が有効性をもつものか、イデオロギー的転化を起こしているかも、判明に理解することができる。それが「世界像」の一般原理の強みである。
  ソシュールの「一般言語学講義」は、まさしくそのような普遍性をもった強度のある原理的言語論だが、デリダのグラマトロジーは、ヘーゲル的な「絶対知」の「物語」(これはデリダ他の現代思想家たちの壮大な思いこみだが)に対抗する「解体する知」の「物語」であり、一定の時代的重要性をもったが、言語学的原理論としてはほとんど強度をもたないのである。

    *

  哲学が「原理」の学であるということを、はじめて明確に自覚した哲学者は、疑いなくヘーゲルである。彼の『哲学史講義』にその自覚の形がもっともよく表現されている。哲学は、普遍性を追求する学であって、「絶対的真理」を取り出すものではない。「絶対的真理」という考え方は、きまって「真理」は言葉によっては決して表現できない、という対抗的思考を生み出す。哲学によってつかみ出された「原理」(ヘーゲルは当時の習慣に従ってこれを「真理」と呼んでいるが)は、決して後退しない。それは、人間の生活欲望の限界底辺が歴史的に不可逆的にあるのと同じく、不可逆的で、後戻りしない(哲学は、科学と違って誰もが納得するような「真理」を生み出しはしない、というヤスパースの哲学観は、ヘーゲルからはわらうべきものである)。哲学は、強度のある「原理」を時代の中から取り出す言語ゲームであり、いったん取り出された強い原理は、権力や時代的風潮の一次的な勢い以外の要因では、決して消え去ったりはしない。それは、人間の精神と欲望の本質からの必然的な規定を受けており、有為転変はあっても、必ずその「原理」の強度を実現していく。これがヘーゲルの歴史哲学の要旨であって、知の運動は必ず「絶対知」に到達する、などというのは、当時のヘーゲルの口調を素朴に受け取っていることの結果にすぎない。

    *

  哲学の方法と近代科学の方法をまったく相容れないものとして対置したり(論理実証主義や分析哲学)、哲学の形而上学性を近代科学の方法で鍛えようとしたり(プラグマティズム)、哲学の方法を全否定してこれに代わる新しい思想のモードを作り上げようとしたり(ポストモダン思想)、これが現代思想の世界地図の様相だ。
  しかし重要なことは、科学の方法は、まさしく哲学の方法から生まれてきたものであり、その本質はいまもまったく変わっていないということ。つまり、「原理」を取り出し、そのことによって「真理」を発見するのではなく、普遍性を創出するという点に哲学と科学の本質があるということだ。
  普遍性という概念自体がヨーロッパから現われたもので、それ自体ローカルなものにすぎない、といった言い方は、一見気がきいている。しかし、すこしでも科学的な、あるいは数学的な訓練を受けたものにとっては、そのような言い方は、ある風潮を後ろ盾にしただけの「レトリック」にすぎないことが明らかである。それがはじめにヨーロッパから出ようが、アジアから出ようが、人間という種にとって「普遍的」なことがらというものは必ず存在する。それをどう言葉によってしっかり規定し、確定するかが容易な業ではないだけで、上のようなレトリックは、思想語という符帳を習いおぼえた人間なら誰でも言える体のものであろう。
  同じく、理性的に世界を見ることが果たして理性的か、という言い方もある。理性を疑え、理性はヨーロッパが作り出したものだ、と。わたしはそういう言い方を推奨しない。ヨーロッパの問題点はヨーロッパの問題点として、徹底的に理性的に理解すべきことである。理性や合理主義や普遍性はヨーロッパから現われた。だからそれらを信用しない、という思考は、理性や合理主義や普遍性の本質を鍛え上げる方向に進まず、これに“対抗”する諸概念を作り上げる方向へ進む。これがひとつの「物語」にべつの「物語」を対抗させる典型である。ある場合にそれは意義をもつ。しかしある場合にはただちに別の「イデオロギー」に転化する。実存の本質を探求することから出発しながら、「存在」という概念を、理性や普遍性に対抗させ、奇怪な反=ヨーロッパイデオロギーに加担したハイデガーがそのもっとも象徴的な例である。

    *

  哲学(フィロソフィー)は独自の方法原理をもった思考法である。しかしそれは、一九世紀後半以降、いくつかの理由でその方法原理が完全に覆い隠されてきた。いまこれを、その本質的な形で再生したいとわたしは考える。普遍性の探求の方法としての「哲学」を回復するには、まず伝統的な「真理」概念を解体しなければならない。しかしそれは、ポストモダン思想や分析哲学が行なっている仕方では不可能である。それは「真理」を“相対主義的、懐疑論的本質において、解体する。そのことによって、「普遍性」の概念の本質をも解体する。あとに残こるは、否定的、否認的批判主義一般である。一九世紀末にそれが蔓延したとき、ニーチェはこれを「貧血したニヒリズム」と呼んだ。
  「普遍性」を立て直そう、とどこかで声がすると、たちまち、「真理主義だ」、「形而上学だ」、「ヨーロッパ中心主義だ」という叫びが上がる。ここでは、「普遍性」という概念が、スコラ哲学で使用されていたままで理解されているのである。
  「普遍性」とは何か。もし神のような超越項が存在するならば、それは、世界の一切を普く照らす至上の叡知のことだ。もし神のような超越項が存在しないとするなら、それは、異質な「物語」、異質な価値=身体性、異質な文化、異質な慣習をもった異質な人間たちが、それにもかかわらず、互いに共通のメンバーシップとして承認しあえる了解の関係を創出する行為を指示するものなのである。

    *

  近代哲学の中枢をなす思考の努力を、われわれはもう一度辿りなおす必要がある。それは絶対的「真理」などという概念によって生きてはいない。仮にそのような概念が“信じられている”場面があるとしても、近代哲学者たちは歴史的には、普遍性に創出に向かってその方法を積み重ねている。そこで「物語」を使用するものは、徐々に消えていく運命にある。そのことに少し注意しさえすれば、哲学の歴史は如実にそのことをわれわれに教えてくれる。


[前の文書に戻る] [次の文書に飛ぶ]