竹田 青嗣
今度、韓国で『ニーチェ入門』が出版されることになった。序文をつけるというので、メッセージめいたことを書いてみたい。
私は在日韓国人二世で、日本では「団塊の世代」と呼ばれる世代に属する。若いころから自分のアイデンティティ問題について思い悩むところがあった。私は、回りが私をそう見なそうとする民族的アイデンティティと折り合うことができず、そうかといって、それに代わる他の適切なアイデンティティを見つけだすこともできなかった。そういう場面で私はニーチェに出会った。そこに私は、「民族」や「帰属」や「自己」や「世界」といった諸観念を、徹底的にそれを構成する諸契機に分解するという独自の思想方法を見出した。
ところで、われわれが、ふだんそれを生きている自然な諸「観念」を徹底的にその諸契機に分解すると、理論的なニヒリズムが現われる。いっさいのことがらの「意味」は裸にされ、そのことで自然な命を失う。しかし、ニーチェの方法の本質は、このような「ニヒリズム」の方法的徹底ということ、あるいは「方法的ニヒリズム」ということにある。そして、彼は、この「ニヒリズムの徹底」という方法が、近代的人間にとって不可避の道であることを明確に自覚したはじめの哲学者だった。
近代社会の精神史的本質は、人間的自由の自覚が始発し、そしてこの自覚の進行が不可逆的に展開していく点にある。個々人の自由の自覚は、それまで人間が自然にそれを生きていた諸「帰属」性の意味と根拠を、不可避にその諸契機に還元し、解体していく。つまり、人間の自由の自覚の普遍化は、同時に広い意味でのニヒリズムの必然化と普遍化を意味する。
この事態は思想的にはおそるべき混乱を作り出す、とニーチェは言う。知的ファッションとしての懐疑主義と相対主義。その対極としての過剰なロマン主義と理想主義。また、さまざまな道徳的反動、デカダン、終末思想等々が現われる。さらにまた、はじめは理論的ニヒリズムとして現れたものが、イワン・カラマーゾフやスタヴローギンのような、生きられるニヒリズムへと転化する。
これらの事態の一切は、近代が近代人に刻印した必然的な運命であり道程である。しかし、われわれはむしろ、ニヒリズムを方法的に徹底化するという道以外には、この本質的なニヒリズムを克服するどんな原理的方法も持たない。そうニーチェは言う。これはつまり、近代人は、自然な人間世界がじつは徹底的に幻想的な関係の世界であったことを深く自覚し、その上で、なんらかの幻想関係を自己の責任において選び直す以外にない、ということである。
あえて言えば、私は、ニーチェ思想のこのようなエッセンスを在日韓国人としての経験からつかんだ。そしてこのことが、韓国の若い読者たちと私とのよい接点になるかも知れないと思う。
「世界」に属するさまざまな「意味」の一切を、もはやそれ以上遡行できない諸契機にまで還元し尽くしてみること。それからもういちど人間に必要な諸「意味」の一切を作り直してみること。この方法は哲学の根本原理でもあるが、ニーチェ思想は、それが最も深く具体的に敢行された希有な例である。(了)