講義
誰と生きていくのか
(第5期講座)
受講生から寄せられた感想です
著書を何冊か拝読させて頂いており、どんな方か興味があったので、見に来ました。
2回目は御本人もおっしゃっておられましたが、書いてきたものを読むという感じで、分かりにくかったですが、3回目はおもしろく聞けました。
時代によって考え方を柔軟に変えていき、その過去の考えも、冷静に分析されている態度に好感が持てた。
「知」の聖化に対して「いいかげんにしてよ」という感覚に共感が持てる。
今日の名言“テンプラホモ”“オリンピックホモ”にとてもうけました。
17年の相棒は信仰だとおっしゃった、いい話だなぁと思いました。
[山田亀子さんの感想]
熱のこもった長時間に及ぶご講演をどうも有難うございました。仕事がらみ以外で生のゲイを拝見するのは始めてでしたし、棒給生活者ゆえフリーランスの方の「濃さ」に触れることが出来て大変刺激になりました。(というか、ある意味自分のナイーブな部分をさらけ出して飯を食っていこうという根性は露出狂なのかマゾヒストなのかいずれも相当タフなのだな、と感心する次第なのでありますが。)
さて、先生のお話を伺っていて、特に同性愛カップルの法律上の諸問題についての過去の経験がふと蘇ってきました。私は以前、身体障害者の入所リハビリテーションの施設職員として働いていたことがあって、そこは主に脳卒中の後遺症で障害を負われた方が入所されるわけですが、そこに脳卒中で右片麻痺、失語症の障害を負われた40代後半のゲイの方が入所されてきました。
その方は元飲食店の店員で単身アパート暮らしの方で、とりあえずリハビリテーションの目標はヘルパーなどの社会資源を活用しながらアパートでの単身生活を成立させるということでリハビリテーションを開始しました。しかし、身体障害が重篤であること(身体障害者手帳1級、屋外では杖・補装具を使用した歩行も実用性が無く、車椅子が必要なレベルでした)、また失語症も全失語の状態で日常生活の意思疎通も困難、おまけに受障前に住んでいたアパートは鉄製で手すりのない急な外階段を上がった2階にあり、トイレ、浴室などの改装も大家さんの了解は得られないことが分かりました。
そのような状況ですので身内に身を寄せていただくことを考えていたのですが、その方の相棒が同居しても良いという申し出があり、調整を開始したのですがその相棒の方の住居を改装するための補助費が申請不受理(現在は分かりません)になってしまい、相棒の方もご当人も全面的に改装の費用を負担する経済的余裕も無かったため、泣く泣く断念させざるを得ませんでした。またご当人の母親が存命ではありましたがご高齢であり、かつ白内障のためとても介護負担をかけられない状況でしたので福祉事務所に調整を依頼し長期に入所できる授産施設に入所して頂くことになりました。
仕事的には一段落でやれやれ、というところなのですが、その方のアパートの家財を処分して引き払い、退所時に旅行用の鞄といくつかのポリのコンテナボックスをタクシーのトランクに詰め込んで見送る時には心の中で「ごめんなさい」と手を合わせていました。
この業界で糊口していると本当にこの国のマイノリティーに対するセイフティーネットの危弱さを感じずにはいられません。今回は差別から欲望問題へ視点が移行している、ということで何となく昔よりは同性愛者の生き難さは薄れているという印象を受けることはできたのですが、一旦病気になったり障害を負ったり(加齢もそうでしょう)した時の法律的にも、実存的にも、経済的にも、あまりにも寒い状況というのは本当に何とかならんものかな、とつくづく感じています。
しかし、この国ではマイノリティー(同性愛者に限らず)に対するセイフティーネットの必要性は表面的には認められたとしても実行力のある形で制度化されることは十分納得のいった形での国民のコンセンサスを得ることは難しいと感じています。総論賛成各論反対というやつで、私の業界で言えば「障害者施設は必要だと思うけれども、家の近所に来てもらっては迷惑」とか「障害者の社会参加には賛成、でもうちの会社では雇用できない」など枚挙に暇がありません。
そのことを心理的な壁とか想像力の欠如と言うのは簡単ですが、見たい可能性だけ見たい、見たくない可能性は見たくないというある種の誰しもが持っている無意識の懼れに触れてしまうからで、それを一方的に断罪することはできないからです。私も若い頃はそれこそ若気の至りで「もし貴方や貴方のご家族が障害を負われたらどうされますか」とヒートアップして恥ずかしげもなく口走り、得られそうな結果も得られないまま大失敗したことが多々あります。経験から学んだことと言えば、自己の実存に深く関わる不安ほど想像することに強い抵抗があり、ことさら他者が言語化すると逆鱗に触れてしまうようで、そうなると関係の修復はほぼ不可能になってしまうという事です。
ましてや同性愛者の場合には更に抵抗が強いと感ぜざるを得ません。多くのヘテロの人間にとって同性との性行為を想像しただけで強い嫌悪感を及ぼすもので、欲望のベクトルにおける差異と言われてもピンと来るものではありません。他者の性的指向に関する許容に関してもそれが異性に対するものであれば『おまえあの貧乳とよくやれるよなあ』などと気の知れた友人同士であれば冗談として言い合えるのですが、『実は細身の男の鎖骨の感触がたまらないんだよね』と言われたら恐らく引いてしまうことでしょう。
つまり、世の中に同性愛者が存在していることは認める。そしてその方のことを決して差別はしないと思っていたとしても、いざ実際、自分の身近な存在がそうだとしたら、表面的には平静をよそおったとしても生理的な構えとして(仕草における緊張の度合いなどとして)感じさせてしまうものではないでしょうか。そのように無意識のうちにしてしまう構えと言うのは根深いものであって、それを差別と告発されても言いがかりにしか受け取れません。(例えばヘテロの私がセクシャルな格好をした若い女の子をちらちら見たら痴漢行為として逮捕されるようなものです。)恐らく、はっきり主張できる政治的な課題よりも、そういった根深い意識のあり様の方がのらりくらりと強い抵抗を保ちつづけるものなのだと思います。
今後、先生がどの様に発言されていくのか、もしマイノリティーの具体的なハンディキャップについて言及されるのであれば、私はそれでもなおこぼれて行くマイノリティーを一人一人丁寧に拾っていくのが仕事なのかな、と勝手に腹を括らせて頂きました。何かの折に先生の仕事をフォローさせて頂きますので、健康に留意され(散歩はつづけていますか)ご活躍下さい。
[匿名希望]