近ごろ、北東アジアなどということばをよく見かける。どうやら外務省の北東アジア課なるものから伝染してきたようだ。
英語のnorth-eastを直訳すると「北東」であるが、日本語なら「東北」のはず。日本では東北大学はあっても北東大学ではない。東北地方はあっても北東地方などないではないか。
外務省の粗訳である、というよりも、漢字・漢語の素養や造語力が劣化した“黄色”欧米人の頭を示している。見識がない。これでは国家を背負った外交などできるわけがない。どうしてこのように日本人は劣化してしまったのであろうか。
私自身を振り返ってみると、高校生(昭和二十七年入学)のとき、漢文の授業は週一時間が一年間、週二時間が二年間だった。師は故福永光司教諭(後に京都大学教授、中公新書『荘子』の著者)である。本格派だったから面白かった。別の師は、高校の前身の旧制中学校以来の勤務で、その漢詩・漢文の朗詠はすばらしく、韓愈の「十二郎を祭る文」の絶唱は今もなお耳底に残っている。因みに、古文は山崎馨(後に神戸大学教授)、英語は佐野哲郎(後に京大教授)、化学は今中利信(後に大阪大学教授)......師たちは実力があり、授業は楽しみだった。
当時、大学は少なく、研究者、特に人文系は高校教諭となって研究を続けていたのである。また高校進学率は全国平均で五十%前後であったから、今の大学並みであっただろう。現在の大量の大学の一、二年は旧制中学・高等女学校あるいは昭和二十年代の新制高校の生徒と同じくらいの水準ではなかろうか。
とすれば、大学一、二年生を大人扱いするのは見当はずれというものである。自主的な学生としてではなくて、学習途上の生徒として扱い、大学側から必修科目を多く強制していいのではないか。大学生の不勉強な態度を一掃するためにも。
〇三年十一月だったか、大阪は河内長野市で十八歳の大学生が、女子高生と同棲したいけれども、親が邪魔だとして自分の家族を殺傷した事件があった。この大学生の知的・道徳的水準は小学生にも劣るが、大学生の多くもあまり変わりはないだろう。
こうした〈子どもの世界〉の住民を〈大人の世界〉に導くためにも、必修科目が必要である。さてそうなると、大学は必修科目に日本国憲法などを持ち出すことであろう。ナンセンス。あんな抽象的な文章は子どもにはわからず、かえって災いの元。河内長野の大学生は憲法第二四条「婚姻は両性の合意のみに基いて成立し」と思いこんだのか、文字どおりに行動して邪魔だった家族を殺傷してしまったのではないか。
では、〈大人の世界〉を具体的に教えるものとは何か。漢詩・漢文である。そこには、人間のあらゆる類型があり、思想・文学・歴史とあらゆる分野にわたっている。権謀術数から愛と感動の物語に至るまで、それらは現代における人間学として通用する。近ごろ流行の人間科学などという薄っぺらな代物とは格が違う。
のみならず、漢文は日本・朝鮮半島・中国大陸、すなわち東北アジアにおける共通語だったのである。古典とは、漢文で書かれたものを意味するとさえいってよいくらいだ。すなわち、ヨーロッパにみるラテン語に相当する。
とあれば、理系は別として、少なくとも法経系も含めた文系の学部において漢文を必修科目としてよいではないか。その素養があってこそ〈日本の大学卒業者〉なのだ。小泉純一郎首相も日朝国交樹立などという愚作に現をぬかすよりも、文系学部生の漢文必修を制度化し真の教育構造改革を断行すれば、必ず歴史に残る名宰相となるだろう。
と書いてきて絶望的気分になる。首相・文部科学相や文科省に何を言っても声はとどかない。結局、われわれ中国文学者が具体的に示すほかない。
という覚悟で、この十月、中学生・高校生を対象とした古典入門書『論語』(角川ソフィア文庫)を出した。同書を通じて漢文力に目覚めた生徒との出会いを、老いの楽しみとするばかりだ。
君子三楽の境地である。