長谷川三千子 講師紹介


掲載誌:Voice
(平成5年1月号)

注:原文で傍点が付されている部分を、当ページでは強調文字で表した

未完の自画像

長谷川 三千子

  人間の自画像はキャンバスの上に描かれるが、国それぞれの自画像は「憲法」として描かれる。

  憲法を制定することは、自国の自画像を描くといふことである――これは、明治時代、憲法の制定にたずさはつた人々がみな暗黙のうちに了解してゐたことであった。明治初期、Constitutionがまづ「政体」と訳されたのも、この言葉が、元来、国の体質、素質といふ意味をあらはすものであるのを直訳したのであるし、明治九年の国憲起草の勅命「朕爰ニ我建国ノ体ニ基キ広ク海外各国ノ成法ヲ斟酌シ以テ国憲ヲ定メントス」のうちにも、国憲制定とは「我建国ノ体」を世界にむかつて表現することである、といふ意識がはつきりとうかがはれる。

  しかし、明治のこの国憲制定といふ仕事は、はじめから大きな矛盾をかかへてゐた。それは、たしかに、「我建国ノ体ニ基キ」、わが国の自画像を描くといふ仕事であるのだけれども、他方、すでに「コンスチチユシオン」といふものには、独特の狭い枠組みができ上つてゐて、その枠組み通りに描いたのでは、われわれ自身とは似ても似つかぬ顔に仕上がつてしまふ――さういふジレンマのなかで、国憲の起草といふ仕事はすすめられたのであつた。

  明治二十一年、帝国憲法草案審議に先立つて行はれた演説のなかで、伊藤博文はこの仕事の難しさをかう語つてゐる。

「……欧州ニ於テハ当世紀ニ及ンテ憲法政治ヲ行ハサルモノアラスト是レ即チ歴史上ノ沿革ニ成立スルモノニシテ其ノ萌芽遠ク往昔ニ発セサルハナシ。反之我国ニ在テハ事全ク新面目ニ属ス。故ニ今憲法ノ制定セラルゝニ方テ先ツ我国ノ機軸ヲ求メ我国ノ機軸ハ何ナリヤト云フ事ヲ確定セサルヘカラス」

  すなわち、そもそも、憲法といふ形で自画像を描くといふこと自体、わが国にとっては「全ク新面目ニ属ス」ことがらだつたのである。

  それでは、憲法の起草者たちの見出した「我国ノ機軸」とは何であったのか? 彼はそれを「我国ニ在テ機軸トスヘキハ独リ皇室アルノミ」と言ふ。

  これを見て、後年の憲法学者たちは、「天皇主権主義」と評する。しかし、実はここに語られたのは、天皇主権主義ではなかつた。そもそも「人民主義」、「君主主義」といふ考へ方そのものが、君民の対立(現代流に言へば、国家権力対個人の権利の対立)を前提としてゐる。その前提を批判するところに「我国ノ機軸」真骨頂があつた……はずであつた。

  そのことを伊藤博文よりも深く理解してゐたのは、草案作成の陰の立役者、井上毅であつた。彼の試案の第一条はかう始まつてゐる。「日本帝国ハ万世一系ノ天皇ノ治(シラ)ス所ナリ」この「治(シラ)ス」といふ言葉こそは、単なる上からの一方的な支配をあらはす、西洋流の「ゴーウルメ(govern)」でもなく、中国流の「御」「牧」でもない、「御心の鏡もて天か下の民草をしろしめす」君民一致の思想をあらはす言葉である(『現御神(あきつみかみ)考試論』大原康男著)――これは井上毅、苦心の表現なのであつた。

  ところが、最終草案の段階で、これはあつさりと「之ヲ統治ス」と修正されてしまふ。「我国ノ機軸」を世に示すといふ点から見て、かへすがへすも惜しまれる修正であつた。

  しかし、もしもこの井上案がそのまゝ通つてゐたならば、それはただ「天皇主権主義」などといふものよりも、はるかにラディカルな近代憲法(コンスチチユオン)に対する反逆となつて、もはやその枠組に収まりえないものとなってゐたであろう。「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」といふ最終草案のかたちは、「我建国ノ体」と「海外各国ノ成法」との、おそらくはぎりぎりの妥協点であつた。

  欧州の憲法政治といふものが、いかに深く根底から君民対立の考へ方にそめ上げられてゐるかといふことを、伊藤博文も知つてゐたし、井上毅も知つてゐた。大日本帝国憲法といふものは、その余りにも制約されたキャンバスの上に、しかし尚、渾身の努力によつて描かれた、「未完の自画像」だつたのである。

  いま、われわれは、わが国の「最高法規」として――すなはち、われわれにとつての最終的な価値のありかを表明するものとして――日本国憲法を有してゐる。しかし、この日本国憲法の、いつたいどこがわれわれの自画像たりえてゐるだろうか?(まずもつて、他人が描いた「自画像」といふことが、すでに言葉の矛盾であるが!)

  そもそも、憲法がその各国の自画像である、といふ考へ方それ自体を、われわれは放棄してゐるやうに見える。自画像を描くかはりに、われわれはむしろ、(ちやうどファッション・モデルの写真に合はせようとダイエットにはげむ女の子のやうに)日本国憲法に合はせて、われわれの姿を切つたり縮めたりして苦心惨憺してゐる。

  いつの日か、われわれはほんとうの自画像を、自前のキャンバスの上に描くことができるのだらうか?