西研 講師紹介


当ホームページのための
書き下ろし

(佐藤幹夫 2002年2月25日)

『ヘーゲル・大人のなりかた』を読みながら

佐藤 幹夫

●ヘーゲルの岩波文庫本が、『歴史哲学』以外、店頭から姿を消している。
  神田や早稲田の古本屋に出向いたとき、ヘーゲルの本を探し、懐具合と相談しながら買い求めるようにしているが、なぜ学生時代に買い求めておかなかったのかと、悔やむことしきりである。なぜいまヘーゲルなのか。国家や戦争、法などの社会思想についてもう一度考え直すことがとても重要になっている。しかも、勇ましく大上段にではなく、いま自分がいる、この場所から。そのときようなだからこそ、ヘーゲルをきちんと読みたいと思うのである。 しかしわたしは、40を過ぎるまで、哲学とはまったく無縁だった。ニーチェ、キルケゴール、プラトンなどを少し読んだ程度である。ベルクソンの著作は小林秀雄との関係で手にしていたが、読み始めてはみても、何度か途中で放り投げている。カント、ハイデガーなども何度となく挫折している。哲学にはまったく不向きな頭の出来なのだと、以来、敬して遠ざけてきた。

  わたしはもともと「文学の徒」であり、また恥ずかしながら、柳田民俗学、記紀万葉、民俗宗教史などをかじって20代を過ごした。30歳になった頃、40を過ぎたら生業の傍らひっそりとそれらの研究書を読み、宮本常一のように旅をして史跡や古寺社を訪ねて過ごそうと考え、文献もそろえていた。ところがどっこい、そうは問屋がおろさなかった。
  それがなぜかここにきてヘーゲルなどを買い求めている。まさに50の手習いを始めているわけだが、なんでこんな事態に至ったのか。おそらく、西研という哲学者に出会わなかったら、ここまでのめりこむことはなかったはずである。

  西さんの『哲学のモノサシ』『哲学の練習問題』、そして『実存からの冒険』を読み、これまでとはまったく異なる哲学の「語り口」に出会い、驚き、そして深い感銘を受けた(前二著の感想については『樹が陣営』ホームページに掲載してあるので、ご覧いただけたら幸いである)。わたしに特筆すべきことと思われたのは、哲学が、自分が生きているという確かな手触りのなかで語られているのである。
  しかしなんといっても決定的だったのは、『ヘーゲル・大人のなりかた』であった。わたしは「世界の大思想」の樫山欽四郎役で『精神現象学』を読んだのだが、まったく歯が立たなかった。お経みたいなものだった。読んでいくそばから忘れていくのである。 しかし『ヘーゲル・大人のなりかた』を手引きとして再チャレンジしているうちに、少しずつ光明がさしてきたのである。西さんからは未知谷のものを薦められていたのだが、とりあえず手持ちの長谷川宏訳と較べながら読み進めているうちに、そのケタ外れのスゴさが、少しずつ感じられてきたのである。この『精神現象学』というのは、相当にすごいんではないか。
  そして難解この上ない『精神現象学』をこのようにしっかりと読み込み、それまでの哲学嫌い・哲学オンチを鼓舞し、哲学などというきわめて特殊な領域に引っ張っていく『ヘーゲル・大人のなりかた』という本も、これまた相当にすごいんではないだろうか。
  というわけで、すっかり西・ヘーゲルにはまり込んでいる昨今なのである。

●わたしはやっと今ごろになって、国家や社会についての思想の重要性を感じ始めている始末だが、西さんはすでに7年も前に、ポスト・モダン思想を批判しながら《日本社会が大きく変わりつつあるいまこそ、こういう原則的なことを明確にしておかなくてはならない、とぼくは思う。(略)。こういう時期だからこそ、ルールというものの本質、また社会を批判しルールを変更しようとするさいの「流儀」を考えることに、とても大切な意味がある。》(p13)と指摘している。しかし社会への批判が独善にならないためにどうするか。ポスト・モダン思想のように斜に構え、「正しさ」を求める感情をつぶしてしまわないために、どうするか。ここにヘーゲルが呼び出されることになる。

  《――じつはヘーゲルは、こういうことをとことん考え抜いた人なのだ。<正義や理想を腐らせてしまわないために、どういう態度をとればいいのか><社会を批判する基準は、どこに求められるべきなのか><ルールの本質とは何であり、どうやって変わっていくものなのか>。彼の「体系」の中核に込められているのは、じつは、そういう問いなのである。》(p14)

  そして『精神現象学』までの前史を宗教論にたどり、それに続く『ドイツ憲法論』に触れ、その要点を次のようにまとめている。

  《(1) ひとつの社会や時代には、それなりの「精神」がある。それが「時代の精神」だ。 (2)社会の法律や制度は、この時代精神によってかたちづくられており、支えられている。 (3)時代精神(人々の価値観・世界観)が大きく変動するとき、いままでの制度は壊れて新たな制度がつくりだされる。》(p74)
 
  これは「社会批判の「根拠」はどのように設定しうるのか」という問いであり、社会思想を「鍛え直す」ための方法である。そしてこの「鍛え直し」には、《ひとつは、自分の理想がどういう歴史的現実から生まれてきたものなのか、について自覚的であること。もうひとつは、自分の理想の実現可能性をきちんと視野におさめることだ。》という二つの意味がある、とされる。
  つまり、人間性と社会制度の理想を、時代精神の歩みのなかに根づかせなくてはならない。(原文では傍点が付されている部分を、当ページでは強調文字で表した。以下同じ)。なぜなら、《「個人の自由」という原理がそれだけで絶対化されれば、それは共同性の破壊につながるだろうし、「共同性」の原理がそれだけで絶対化されたときにも、個人の自由は押しつぶされるだろうから。》
  そして『精神現象学』は、こうした課題の答えようとしたものだという。なぜいまヘーゲルなのか、というわたしの問いの答えもここにある。

  『精神現象学』は「A意識 B自己意識 C理性 D精神 E宗教 F絶対知」という構成をもつ(樫山訳による)が、このことは何を意味するか。西さんは、《意識は経験を積むことによって、いままでの知を改めて新たな知を形成する。まったく同様に、意識は経験を通じていままでの社会制度を改め、あらたな制度をつくりだす。このように、意識の成長物語というスタイルであらゆる知と社会制度の成り立ちを解明して見せることができるだろう。》このような途方もない試みが、『精神現象学』なのである、という。
  そして『ヘーゲル・大人のなりかた』も、ここからが本番となる。しかしまた、その核心をはずさずに短いスペースで紹介することは不可能である。なんのこっちゃ、とお叱りを受ける代物となることは必定である。『ヘーゲル・大人のなりかた』はまだ版を重ねており、欲求不満を感じられた方は(そうでない方も)ぜひ手にしていただきたいとお断りして、以下に蛮勇を奮ってみる。

●まず、意識というものの三つの原理が取り出される。

  《(1)あらゆる対象は意識の場面において経験される。意識の「外側」を考える必要はない。――根源的な場面としての意識 (2)意識は自分の知を「反省」することができる。反省こそ、意識を進展させる原理である。――意識の「反省」能力 (3)意識は本質的に「自己意識」であり、<自己>を安定させよう・拡大しようとする欲望をもつ。たんなる反省というよりも、本質的にはこの欲望こそが意識の進展の原理である。――「自己」意識》(p82)

  (1)については「意識の場面とそこでの経験に「内在」することによって、わたしたちの経験の実質を問うことができるようになる」というように、フッサール現象学の蓄積にたった理解が示される。主観vs客観ではなく、「そのつどの経験における主観と客観のあり方をみる」、そのような方法がとられている、とする。 (2)で言われるヘーゲルの「反省」とは、「自分自身の知を自分自身で検討し吟味すること」である。「反省」によって新たな知を生み、<わたしの>から<われわれの>という視点を持つことができる。
  しかし(3)意識はまた必ず自己をもち、そのなかで物や他人や世界を認識している。ここでハイデガーの「世界とは何らかの欲望に相関して現れる」という考えが対比される。自己とは、確実性を保とうとすることを基本とするが、他者や社会、自然がそれを脅かすものとして現れ、そのとき意識はより包括的な「自己」をつくる。そのことによって、社会や他者への認識も変容する。言い換えるなら、ルールのある合理的な社会を求め、そのことによって自由な自己を目ざそうとする。

●このような原理にたって「A意識 B自己意識 C理性 D精神」という構成をみたときどうなるか。 「A意識」とは《これは「対象意識」と呼んでもいいもので、目の前に存在する対象の「真理(真相)」は何かを追究しようとする意識である。》 「B自己意識」 《ここで述べられるのは、狭義の自己意識であって、それは「排他的なこの私」を<自己>とみなす態度である。》 「C理性」《理性も自己意識の一種だけれど、「みんなにとって」という視点を獲得するにいたったものだ。「私にとって」だけではなく、「みんなにとってどうなのか」を考えるところに、理性がある。/理性は自然を観察し、また正義を掲げて社会制度に反抗を試みる。理性は自然にも社会にも「みんなの納得しうる合理性」を要求し、そのことによって、自然・他者・社会のなかに<自己>を見出そうとするのである。》 「D精神」《「精神」とは、個々人の精神でもあるけれど、むしろ人類や社会のレベルで考えられた「普遍的・共同的な精神」である。それは、個々人の心と行為に浸み透っているだけではなく、同時に社会制度というかたちをとって具体化されているものである。》(以上p100―101)

  そしてこの「D精神」は世界史というかたちをとって、大きく三段階に分けられている。 《(1) 個人と共同体の一体――個人が共同体に対する信頼のうちに安らいでいる段階。個人は共同体の一員としてのみ存在していて、「この私」の意識は存在しない。ここでは、古代ギリシャのポリスが念頭に置かれている。》 《(2) 「この私」の出現――共同体に対する信頼が消失し、「私」の意識が出現する。そして、「私」と世界(共同体)とは疎遠なものとして対立することになる。(略)。ここでは、ローマ→封建時代→絶対王政→フランス革命という歩みが念頭におかれている。》 《(3) 私と共同体との和解――絶対的な私の意識をもちながら、同時に共同体と自分が深くつながれていることを意識する段階。これがドイツの精神として語られる。》(P101-102)

  「E宗教」と「F絶対知」。
  宗教の歴史とは何か。ヘーゲルにあっては、《宗教こそ、個人と共同体のあり方を、全体としてある物語(イメージ)のかたちで示すものである。》と考えられているのだという。 《専制的な君主の支配する古代オリエント。平等な個人のつくりあげる古代ギリシャのポリス。個人と共同体が分裂したローマ以降の世界。おのおのの社会形態における共同体と個人の関係は、神と人間の関係というかたちでイメージされる。》。 そして《最終的な宗教のかたちとして、キリスト教を評価することになる。》。 しかし宗教の歴史に続く最後の「絶対知」の章で、《ヘーゲルは、自分の哲学こそが宗教に代わって共同体と個人の関係を「概念的に把握するもの」であると主張するのである。》(p103)

●ここまでが、『ヘーゲル・大人のなりかた』のほぼ三分の一である。そしてこれ以降、それぞれの章が精察されることになり、つまりここからが本書の白眉なのである。以下、わたしの関心にそって引用する。 まず「理性」は、三つの歩みを持つものとして描かれており、それは(1)観察する理性、(2)行為する理性、(3)社会のなかの理性、とされる。そして「行為する理性」について述べた部分に、次の一節がある。

  《(ヘーゲルはフランス革命を肯定的に語っているが、そこで何を語ろうとしたのかと問い)ひとつは、社会を批判する思想には真の普遍性が要求される、ということだ。正義は独善的なものであってはならない。「私の心は純粋である。私は正義を確信している」、そういう思い込みは、「みんなにとって」を真剣に考えようとしない自己満足なのだ。 もうひとつは、個々人の私的な利益を無視したところに正義は成り立たない、ということだ。エゴイズムを徹底排除して純粋な正義を求めようとする思想を、人はもつことがある。しかし正義と私的な利益を「対立」させるかぎり正義は無力となり、結局他人を見下すような、腐ったものになってしまう。むしろ「義しさ」と「私的な利益」がどこかでつながっていくような可能性を追及しなければならない。》(p133)

  これは『精神現象学』のライトモチーフであるとともに、西研という哲学者においても重要な主題としてどの著作でも貫かれている。なぜか。わたしの推測ということになるが、そうすることによってこそ、「哲学」は生きたものとなる、普通の人間にとっても何ごとかの「力」となる。そのように西さんは考えているのではないだろうか。
  さて「行為する理性」が、なぜ社会的なものとなるか。ヘーゲルは、「行為」というものに、きわめて独特の光をあてている、という。

  《ひとつは、行為が個別性と普遍性を総合するものである、ということだ。行為は「私」の行為だからエゴイスティックな動機を持つけれど、同時に普遍的・公共的な意義をもつもの(善なるもの)を生み出すのである。もうひとつは、行為が主観と客観を総合するものである、ということだ。行為は、個人のなかに眠っている潜在的な素質や能力―これもそれ自身としては「善い」ものだろう―を、現実化し、客観化するからだ。》(p134)

  行為の意義についての自覚の深まりが、個別と普遍、主観と客観という対立が克服されていく、おそらくこのプロセスをたどることが、ヘーゲルを読むことの醍醐味だろうと思う。西さんは次のような言い方をしている。《個人と社会の関係をどう理解するかというのは、社会科学上の大問題だったけれど、へーゲルの論は、個人の欲望が社会的な制度に織り込まれていることを、じつに的確に言い表わしている。》(p134)
  「行為」についてのみならず、『精神現象学』を読んでいると、難解な文章の合間にカッコいいフレーズがあらわれることがある。慣れないうちは、どこで息継ぎをすればよいのか分からなくて、頭のなかが酸素不足になり、呼吸困難になってしまうような、相当に骨の折れる文章がつづく。しかしところどころで、オオッ、という下りが出てくる。むろんカッコいいということは、洞察の深さをビシビシと感じさせるということでもある。たとえば文脈を無視していきなり引用すると、「理性」の章に次の下りがある。

  《身体は、形成されない存在と、形成された存在との統一であり、自立存在によって浸透された、個人の現実である。この全体は、本源的な固定した一定の部分と、行為を通してのみ発生する特徴とを、自らのうちに含んでいて、現に存在する。この存在は、内なるものの表現であり、意識および運動として措定された個人の表現である。》

  こういうところに、わたしはシビレル。恥を覚悟で書けば、この脇に、「ニーチェ」とメモしている。『ツァラトゥストラ』の一節、「もしせむしからその背のこぶを取るならば、それはかれの精神を取去ることになる」が思い起こされたのである。なんのこっちゃ、と思われるかもしれないので一言だけ加えれば、身体を「障害をもつ身体」と置き換えて、わたしは読んだわけである。

●話しを戻そう。もうひとつは「承認」について。
  個別と普遍、主観と客観の対立が克服され、自己が「絶対本質」を取り込んだとしても、精神の自由は単独では果たされない。そこには他者の承認が必要である。しかし異なった互いの自己は対立する。対立は和解しなくてはならない。ここでヘーゲルを孫引きする。

  《二つの自我がその対立的な定在を捨てて和解する。この同意の言葉「然り」は、ふたつの広がった自我定在であり、ここにおいて自我はあくまで自己に等しいままであり、みずからの完全な外化と反対のなかにあって自己自身を確信している。「然り」は、ふたつの自我のただなかに顕現する神である。》

  なんか、いかにもヘーゲル、ですね。西さんはこの文章を引いた後、次のように書く。

  《(異なった、対立するふたつの自己の)この和解=承認において、個別的な意識(行動する良心)は普遍的な意識とひとつになり、普遍的な意識も個別的な意識とひとつになる。ふたつの意識がふたつでありながらひとつであるという、精神の本来の在り方(自由であり共同的であること)がここに達成され、しかもそのことが両者に自覚されている。》(p184) 《だから両者の相互承認とは、互いのなかに「共同的存在であろうとする意志」を確認し合うことなのだ。》(p185)

  そしてここからヘーゲル思想の核心となるべく(とわたしは読んだ)二つのことを引き出す。

  《第一に、ヘーゲルが、真実の良心(真実の道徳性)というものを、共同体のルールへの忠誠でも何らかの理念への忠誠でもなく、共同性への意志であると考えていること。<共同的な存在であろうとする意志こそが、あらゆる正義やルールやモラルの根底にある>、そういう思想がここにはある。 第二に、このような共同性への「意志」の相互承認にこそ、過去の対立や悪の行為という「傷」を癒やす精神の力を見出そうとしていること。つまり、<共同的であろうとする>意志の相互承認にこそ、対立を癒やして和解にいたる鍵がある》(p185−186)

  西さんは、このことを次のように読み替える。

  《対立は、自分の側のルールの正当性に固執するかぎり解決できないが、新たな共同関係への意志が生まれ、そしてそれが相互承認される――そして場合によっては新たなルールがつくられる――ことによって、それはそのつど乗り越えられる》(p188)

  これは個人対個人、個人対共同体、共同体どうしの関係についてもあてはまる、とし、「国家を絶対視する御用学者ヘーゲル」とみなされてきたが、ルソーの契約国家観につらなる思想を『精神現象学』の中にも見ようとしている。しかしもう少し先があり、西さんは、『法哲学』におけるヘーゲル国家観、つまりヘーゲルの行き着いた国家観については、やはり批判の俎上にのせているのである。

●最後に、ヘーゲル哲学から何を引き継ぐか、という文脈で語られた中から以下の部分を引用して、この雑感を終えたい。 《つまり、関係の悦びを求めるからこそ、言葉を鍛える意味がある。――自分に不満があるなら、それは何かよく考えてみること、相手の事情に合わせて考えてみること、そのうえで、最終的に相手に通じるような言葉をつくろうとすること。そういう「言葉のモラル」についてぼくは何度か語ってきたけれど、それは別に「義しい態度」を意味しない。むしろそれは、関係の悦びを深くしていくための「技術」なのだ。》(p234)

  今回の西さんの講義タイトルは「歓びの哲学」である。(「悦び」ではなく、「歓び」と当ててしまったのは、わたしです)。
  多分、ここから西さんは、「人間学アカデミー」の講義をはじめようとしているのではないか、とわたしは推測している。