佐伯 啓思
私はこれまでサッカーにはほとんど関心がなかったのだが、それでも今回のワールドカップは、結構テレビ中継を楽しんだ。ワールドカップがなぜ人々を魅了するのか、その理由ははっきりしている。そこに「国」があるからである。実際、それぞれのサッカー・チームの中にその国の個性を見ることさえできるという意味では、サッカーは国民文化の一つの表出といえるかもしれない。だが、それにしてもどうして、人々はサッカーの中の「国」にかくも熱くなるのだろうか。
スペインの哲学者のオルテガが、いまから九十年ほど前に、「スポーツとしての国家の起源」という論文を書いていて、面白いことを述べている。
かつて人類が遊牧段階から脱して、定住し社会を作りだすときに、何が起こったか。若者が中心になり、獲物を獲得し、他の集団と争うという、いわば戦闘集団ができたであろう。この戦闘する集団こそが最初の社会であった。ここでは、集団の規律化が生み出され、身体的訓練が重要な課題となり、若者たちは家族から離れて、指揮官のもとに統率されて集団的生活を行なっただろう。そして、この獲物を獲得するための戦う集団の行動が様式化されたものがスポーツであり、また国家だというのがオルテガの述べているところである。国家は、スポーツから始まった、もしくはスポーツと同じ起源をもっているというのだ。
このオルテガ説を借りてくると、サッカーと「国」の結びつきはよく理解できる。サッカーはその言葉の通り、人々を「結びつける(アソシエイト)」ものであり、そのルールや競技としての特性の単純な明快さにおいて、確かに、スポーツの起源を指し示しているように見える。獲物を狙う(ゴールを狙う)ために集団を作り、集団間の競争、闘争の中で素早く矢を放つ(シュートする)。この集団では、個人の力量がものをいうと共に、それぞれの役割を果たすための訓練された組織力が重要なのである。
ところでオルテガは次のように言っている。集団の獲物獲得の対象は、他の集団の女性でもあっただろう。だから女性は、こうした戦闘集団とは対立する存在だ。つまり、この種のスポーツや国家というものに対しては冷ややかだ、と。
もしそうだとすると、このワールドカップにおける女性たちの熱狂はどう考えればよいのだろう。ただ、サッカーの本場であるヨーロッパでは、概してサッカーは男性的スポーツだと見なされていて、女性はさして関心を持たないようである。とすれば、この女性の熱狂は日本や韓国独特のものなのか。あるいは、オルテガに従えば、「スポーツとしての国家の起源」というそもそもの起源にわれわれが全く無頓着なためなのか、それども……女性たちも本質的に「スポーツとしての国家」に熱狂するものなのか。サッカーはいずれにせよ、「国家」についてさまざまなことを考えさせてくれることは間違いない。