佐伯啓思 講師紹介


掲載紙:京都新聞 夕刊
(2002年5月2日)

「ものを考える」こと

佐伯 啓思

  四月に入学してきた新入生たちも、約一カ月たち、五月の連休になって一息ついているころだろう。少し前までの大学は、実質上の授業開始は連休あけだったが、近年は、授業開始が早まり、連休になるころは、すでにひとりあたりの導入的な話は終わっている。

  とりわけ少人数の講義の場合、導入は、何よりまず、学生に刺激を与えることだし、一般的な問題意識をもってもらうことだ。そこで、私の場合、いささか挑発的に、現代の大きな問題を取り上げたり、それを、西欧思想の流れを鳥瞰する中で論じたりする。今年は、昨年の九・一一テロを取り上げ、その背後にある、西欧近代的なものと宗教的原理主義の対立などという話をした。

  相当、挑発的なことを話し、また、これもかなり挑発的な思想史の展望を示しているはずなのだが、どうも学生の反応が鈍い。話に退屈しているのではない。興味がもてないわけでもない。むしろ、皆、熱心に聞き入っている。しかし、それに対する「反応」がないのである。ひと昔前なら、すぐに何人かの学生が、何か言い返してきたものだ。こちらの「挑発」にすぐに応じたものなのである。

  ところで、先日、ある高校の先生が私の研究室を訪ねてくださった。この先生は、論文入試の指導に、ある決意をもって臨まれておられるようで、論文入試の指導をきっかけにして、ものを考えたり、現代社会の出来事に対して自分の見方をできるように高校生を誘導したい、ということである。つまり、大学の講義や、社会で起きていることと、高校生の意識や関心の橋渡しをしたいということだ。

  これは大変、結構なことである。十六、十七歳あたりの高校生の時期というのは、型にはまった教科書や受験参考書をひたすら覚えるというより、まさに、社会や人生やらに対する関心に目を開き、それにどう向きあうかを考えようとする時期であろう。手探りで、社会や生に向き合いはじめるのである。そして、古典をはじめとする本や思想、それに友人、先輩や先生との語らいは、その大きな手助けになるはずである。

  この先生の意図は、論文試験の指導を通して、生徒に、その手助けを提供しようというものだ。うまくやれば、論文試験の指導は、そういう可能性をもっているという。しかし、実際には、論文試験でさえ、「よい答案を書く方法」、「バランスよく自分の意見を述べる方法」などという受験テクニックに解消されかねない、という。

  学校教育の見直しが進んでおり、文部科学省の「ゆとり教育」か、その結果、「学力低下」が生じるか、といった議論がなされている。このいずれにも言い分はあるが、確かなことは、例えば、高校生レベルでは、社会や人生についての、自分の問題やものの見方を作ることを可能にしなければならない、そしてそのためには、本を読んだり、人と話(議論)をする力を、すでに初等教育の段階から養う必要があるということだ。そこにこそ教育の要が置かれねばならないであろう。


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