滝川一廣 講師紹介


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書き下ろし
(佐藤幹夫 2001/12/05)

その他、固有の表れに対して 滝川さんの自閉症論について(4)

佐藤 幹夫

  彼らに固有の症例を、滝川さんは、「同一性保持(こだわり行動のこと―佐藤)への強迫的欲求」、「知覚の異常性の問題(および身体性の異常の問題)」、「感情認知の問題」、「不安やパニックの問題」として取り出している。これらはひとつひとつバラバラにあるのではなく、それぞれが絡み合っている。
  以下、自閉症の子に特有のあらわれを、滝川自閉症論においてどのように説明されているか、その主要部分を列記したい。

1) 同一性保持(こだわり行動)への強迫的欲求について

《1(同一性の保持は)精神発達のプロセスにおいてほとんどの子どもが通過する現象で、自閉症児の特徴はこの症状を持つところにではなく、この段階に長くとどまるところにある。

4(精神遅滞児が自分の理解をこえたことや未経験の事態に取り囲まれ、そこで生活を余儀なくされるために「同一性の保持」が多く見られることと―佐藤註)自閉症児も同様である。しかも、まわりの世界を共同的な普遍性の相のもとに認知して秩序化する心の働きの発達が遅れるため、彼らはまわりの世界をそのつどの直接体験(直接知覚)に依存して認知せざるをえない度合いが高い。従ってまわりの体験野(知覚野)のわずかな変化ですら大きな秩序の変容として体験されやすい。そのため、些細な変化でも大きな不安を惹起しうると考えられる。 また、まわりの人々がどんな状況でどんな行動パターン(対処法)をとるかを観察や模倣を通して習得し、行動レパートリーを広げていくことに遅れるため、自前の限られた行動パターに頼る(固執する)しかない。これらのために、自閉症児においては「同一性の保持」がとりわけ極端なかたちで目立ちやすいのであろう。》

<1>より(1,4は原文の通し番号)

  「まわりの世界を共同的な普遍性の相のもとに認知して秩序化する心の働きの発達が遅れるため、彼らはまわりの世界をそのつどの直接体験(直接知覚)に依存して認知せざるをえない」ことが大きな不安の要因となる。
  つまり、彼らにとって「日常体験」とは「意味の体験」というよりも、もっと意味以前の直接的・知覚的なものだ、ということがここで述べられている。快・不快といった情動に、それは直結する。情動は、すぐさま行動を呼び起こす。
  しかし、知覚体験さえも文化的・共同的な組織化であると指摘されていることはすでに引用した(ウ)。その行動が、わたしたちから見れば無意味に見えたり、目的を欠いているように見えるのはこのメカニズムのためである。快のときには快の行動となり、それは自己刺激的常同行動となって固着する。不快のときには不快の行動となり、自傷行為もまた彼らにはよく見られるものである。
  日々において、次々に生起する物事を意味づけることができないとき、あるいは意味づけることのできる物事が少ないとき、それがどんな不安をもたらすことになるか、察して余りある。おそらく、彼らにとってはわけの分からない情報の洪水であるだろう。

2) 「知覚の異常性の問題(および身体性の異常の問題)」

  知覚の異常性に関しては、一回目の冒頭で書いた。それを知覚の情報処理機構における「入力障害」ととらえる見方がある。「認知機能障害」などと言われる。(正直に書けば、わたしも以前はこの説をとっていた。知覚情報が、うまく統合されていない、という感じがしてならなかった。情報処理をまとめるための「感覚統合訓練法」という療法がある。これを授業実践に使ったところ、きわめて多動だった子が、落ち着きを見せた経験もあり、いまだにすべてを否定し難いものがある。彼らの知覚の仕方は、それほど独特だと感じさせるのである。)

  滝川さんは、人間の精神活動はたしかに「情報処理活動」や「認知(認識)活動」には違いないが、「それでは、小児自閉症とは「精神機能の障害」だと言っているのと大して変わらない。そんな説明なら、すべての精神障害がそうだ。」と、切って捨てる。そしてここには二つの説明可能性があるとする。ひとつは脳器質異常に起因する神経学的障害。しかし、これはやはり報告が多様であるため、自閉症全体の説明にはならないという。
  素朴な疑問なのだが、上の「認知機能障害」と、この「神経学的障害」はどう区別されるのだろうか。ここはお聞きしてみたいところだ。
  滝川さんは先に紹介したように、子どもは文化に参入する発達過程において、遠隔受容器に基づく認知を洗練させていくのだが、「自閉症児はこの参入に遅れるため、私たちの文化尺度から言えばprimitiveな近接受容器への依存が大きく残る」とした後、

《perceptual inconstancy(知覚の非恒常性のこと―佐藤)の問題は、これは別に病理現象ではなく私たちだってよく考えればそうではあるまいか(面白い話を聴いているときは窓の外の車の音は耳に入ってこない。来客を待つときは車の近づく微かな音さえぱっとききつける、など)。知覚体験とは非恒常なものなのである。興味や注意の向け方の問題で、ただ自閉症児の場合、興味や注意の対象やその向け方が、私たちが普通はこうだと社会的に共有しているものと必ずしも合致しないので特異な現象に見えるだけだと考えられる。》

<1>より

 知覚体験は、乳児からの果てしない学習を経ることによって、世界を「このように」構成することを可能とした。視覚も聴覚も、そして重力を調整する円庭覚も。知覚心理学によれば、生来の全盲だった人が、手術によって視覚を取り戻したとき、最初に目に入る光景は奥行きのないべったりとしたものと映った、と報告している。
  あるいは補聴器は情報調整ができず、近い音を優先的に拾ってしまう、離れた位置から、間に別に会話をする人を挟んでの話し声はどうしても聞こえない、というのを聞いたこともある。滝川さんが書かれていることは、その通りである。その通りなのだが、私たちには聞き取れない飛行機の音に怯え、引きつった顔をして教室に走り戻る子。電動のカンナ、のこぎりなどの音にパニックを引き起こす子。
  私にも苦手な音、不愉快になる声(誰の?―笑い―)はある。しかし、そのことと、彼らがなぜあそこまで激しい反応を見せるのか、その間がなかなか埋まらないのである。

3) 感情認知の問題

  この問題は、いわゆる「高機能自閉症」と呼ばれる子によく見られるものである。知的理解力はあるが、他人の感情を理解できない、勝手に見当違いをする、というような。このことと表裏をなすのが、彼らの話すことに「含み」とか「冗談」とか「嫌味」というものがない、ということである。ある子に冗談を言ったところ、「先生、それは、冗談ですよね。冗談は笑わないといけないんですよね、ははは」と返された経験がある。むろん彼は大真面目である。
  滝川さんのここでの説明は、

《3 私たちの感情や認知の表現は、純粋に生理的なものではなく社会的なものである。乳幼児期の養育者の感情表出の読み取りからはじまって、私たちはいつどんなときに怒り、悲しみ、喜び、またそれらが状況に応じてどんなふうな表現をとるかの複雑な綾を密接な対人交流を通じて学んでいかねばならない。発達早期からの対人交流の大きな遅れは、そのデリケートな綾の習熟を困難なものとするのである。》

<1>より

  彼らは、決して相手の感情を感受しないのではない。ただ、そのようにして感受したものを、「心配しているとか怒っているとか」社会的・対人関係的な文脈において捉え直すための目に見えない文法微妙な綾(code)」の習熟が困難である、というのが滝川さんの理解である。
  ある年の受け持ちの子に、次のような例があった。知的な面からいえば、単語の理解さえ難しい子だったが、わたしが「二日酔い」などで体調不良のときには顔を見たとたん敏感にキャッチし、ルンルン気分丸出しになる子がいた。ときには図に乗って?、つかつかとわたしのそばにより、顔や頭に、ふっ、と息を吹きかけたりするのである。おいおいとは思うものの、大きな声を出すと頭がガンガンするわたしは、ただただ苦笑するばかりであった。そして午後になり、こちらの体調が戻るにつれ、あれっという表情とともに、いつもの殊勝な彼に戻るのであった。
  わたしは彼をいじめていたわけではない。普段から声が大きく、何かといえば無理難題を持ち出したり、ややアグレッシブなところのあるわたしに対し、彼は絶えず警戒し、アンテナを張っていたのである。

4) 不安やパニックの問題

《1 パニックなどに窺える自閉症児の強い不安や怯えは、人間関係論的な葛藤的不安と解釈するよりも、遅れをもつ子どもに通有の十分理解したり対処できない世界の中で生きているおぼつかなさや薄氷感(安全感の乏しさ)と考えられる。
2 ことに小児自閉症においては知覚したり体験する世界を社会的・文化的な共同性の相のもとに秩序づけて認知することが遅れるため、その体験野(知覚野)は不安定かつ直接的な感覚刺激に彩られた混乱的・不安惹起的な世界になりがちな可能性がある。一見、無頓着で気ままに振舞っているかに見えるときでも、私たちよりずっと不安の高い世界を生きていることを知っていたほうがよい。》

<1>より

 わたしもそう思う。自閉症の子どもたちと接する大人は、最低限そのことを知って欲しいと心より願う。


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