佐藤 幹夫
(ウ)
《私たちがふだんは「知覚」と体験しているものも、純粋知覚ではありえず、自分たちの文化(共同性)の相のなかである能動的な切り取り方をして認知(認識)している。》
(エ)
《私たちの認知(認識)には、歴史的社会的に形づくられ共有されてきた(広義の)文化という構造がはらまれており、私たちの精神発達とは、生れ落ちたばかりの文化(ほぼ)ゼロの状態から出発して、その文化を次第に習得していくプロセスと考えられる。従って精神発達やその遅れを、個体内部の中枢神経系の生物学的な自然過程の開花ないし障害に帰して説明するのは無理がある。文化とは生物学的自然として脳や遺伝子のなかに存在するものではなく、人類が長い歴史をかけて社会的につくりあげてきた、いわば人工的な規範として個体の外にある存在だからである。》
(オ)
《精神発達を促すpotentialityは、以下の(A)×(B)で表わされる。―個体の側の要因― ―環境側の要因― (A)(a)中枢神経系の生物学的基盤 ×(b)物理・化学的な感覚・知覚刺激 (B)(c)対人交流への能動的な志向性 ×(d)すでに発達をとげた 文化を獲得している)人々の関与 A:人間の生物学的(個体的)側面 B:人間の社会的(共同的)存在としての側面(a)〜(d)のいずれに不足があっても発達を遅らせたり阻害する要因として働く。》
すべて<1>より
先に(イ)の引用により、対人障害をもっとも基底におくのが滝川自閉症論であることは見てきた。(c)の遅れである。なぜ(c)が遅れるのか、とどうしても問いたくなる。しかしくり返すことになるが、注意しなければならないのは、滝川さんが自閉症とは「欠陥」による結果ではなく、「遅れ」そのものの相対的現象だと捉えている点である。
従って(c)の「遅れ」を(a)に求めないということ、(a)の「欠陥」が(c)となって現われると、リニアには見ないこと。精神遅滞、いわゆる「知恵遅れ」もなんらかの(a)の原因が定位されるものではないように、自閉症もまた同様である、ということ。
言い換えるなら、人間の発達を(あるいはそのつまずきを)、一つの因子に求めない。絶えざる相互要因の中で考えようとする。その論理的根拠が(ウ)の引用、個体内部の生物学的自然の開花が発達ではない、という点、(A)×(B)によってなされる精神発達とは、あくまでも「文化的・社会的」人間への志向そのものであるという点。
ここが、滝川自閉症論理解のポイントであるようだ。対人交流の志向性は、おそらく底板である。その結果、
(カ)
《小児自閉症とは、この(対人交流のこと―佐藤)形成が極めてゆっくりだったため、対人交流に媒介されてはじめて発達(獲得)可能な(社会的・文化的なcodeを要する)精神機能の領域において遅れをとってしまう子どもたちに過ぎない。》<1>より
だからこそ相対的・連続的な遅れとされるのである。その連続性は、次のように図示される。
認識発達 ↑ │ │ ・自閉症(発達群) ・普通 │ │ │ ・自閉症(遅滞群) ・精神遅滞 │ └─────────────────→ 対人交流発達
改めて言うまでもないと思うが、あまたの精神科医が自閉症の子どもたちを、「自閉症という欠陥をもつ治療の対象」としてのみ記述することとは対極の態度があると、わたしはエラソウに書いておきたい。むろん、本当にえらいのは、滝川さんであってわたしではないが。
神経生理学的見解が万能のように流布している昨今、科学的見解を自説に繰り込みながらも、このような人間論的見解を堅持していることは、た易いことではない。とくに精神医療のように、人間関係そのもが治療重要な因子となる領域においてはなおさらである。
以下に、自閉症に固有の症状を引用することになるが、長くなったので、一回目はここまでとする。
続きを読みたい方は、一週間後、もう一度訪問していただきたい。橋爪さんのときにはこの論法で続きをサボらせてもらったが、今回はしっかりと書く。
実は「続き」の原稿もすでに佐藤さんから届いています(ホームページ掲載をサボっているうちに届いてしまった)。続きを読みたい方は、一週間後、もう一度訪問していただきたい......してください。(2001・12・10 杉山千郷)