佐藤 幹夫
当ホームページを覗いてくださる方には、「自閉症」という発達障害はあまり馴染みがないかもしれない。自閉症の子どもたちは、言語、感覚、行動において際立った特徴を示すが、以下、簡単にその様子を紹介してみる。
話しかけられてもオウム返しの答えだったり、反響言語(エコラリア)とよばれる場面・状況にかかわらない独り言であったりと、「会話」の成立が難しい。また「いつ、どこで、なにを、なぜ」の問いに答えたり、人称の変換や視点を置き換えたりすることが困難である。彼らは人に関心を示さないと言われるが、対人的志向性の弱さと独特の言語とは相互的である。対人志向性の弱さは、乳児時点からの、大人との「やり取り」の弱さを希薄にさせるが、わたしたちが、言葉、と呼んでいるものは、おびただしい「やり取り」を経て身につけていくものである。そして対話的言語の未形成は、さらなる対人志向性の弱さを作り出すことになる。
また「感覚障害」などと言われるるように、聴覚・視覚・触覚・味覚・固有覚・前庭覚などに極端なアンバランスを示す。
たとえばある特定の音に過敏で恐怖感を訴えたりする反面、他の音にはきわめて鈍感だったり、常時耳をふさいで音を遮断している子がいたりする。このようなタイプは、視覚に対して、聴覚が過度に優位である。あるいはまた、ジグソ―パズルがきわめて得意な子がいる。絵を見て組み合わせているのではなく、ひとつひとつのピースの形を合わせており、細部は形の細かなところまで見分けるが、全体の絵柄が認知できないという特徴の現われである。模写なども、細部まできっちりと書きこむなど、このタイプは視覚に優位性を持つ。その他、味覚過敏(これは好き嫌いを超えた印象を受ける)、高所、閉所に対する恐怖を訴えたり、ブランコやトランポリンなどの「揺れ」に固着的になったり、同じ動きを常同的にくり返すなど、触覚・固有覚・前庭覚に優位を残す子が多い。
なぜこうした極端な偏りがあらわれるか。
わたしたちは高度な社会を営むに連れ、味覚や触覚よりも聴覚に、聴覚よりも視覚に多く依存しながら生活するようになった(近接受容から遠隔受容へ)。従って、思考やコミュニケーションを円滑に行うために、近接受容器(味覚・触覚・固有覚)よりも遠隔受容器(聴覚・視覚)を発展させてきた。逆に言うなら、わたしたちにとっては「見ること」や「聞くこと」自体がすでに文化的・社会的な行為だと言えるのである。しかし自閉症の子どもたちは、遠隔受容器の発達が遅れ、近接受容器への依存性を多く残している。あるいは視覚と聴覚の協応的な情報処理ができず、どちらかへの一方的な依存ゆえの偏りであると思われる。
彼らの見せる「こだわり行動(同一性の保持)」は、知覚情報処理のアンバランス、あるいはその発達の遅れの結果である。
空いている戸は必ず締める、シャツの裾は絶対にズボンの中に入れない、飲み始めた飲料は容器が空になるまで飲む、濡れた衣服は絶対に身につけないなど、それぞれに独自のこだわりがあり、日常生活に支障をきたすことも少なくない。その他、記憶の仕方が独特であり、一度通った道は覚えてしまう、幼少の記憶の細かいところまで覚えているなども報告されている。この独特の記憶保存が、彼らのこだわりに、少なからぬ影響を与えている。
こだわり行動は、彼らの「不安」の解消のあらわれであり、従ってこだわりが阻止されたり、予期せぬ事態が多発して混乱が限界を超えたとき、パニックとなる。
まだ彼らの世界は充分に「解明」されてはいない。日々の暮らしにおいて彼らは不安に満ちており、わたしたちには想像できない独特の「苦しさ」、「辛さ」があると推測される。ドナ・ウィリアムスの『自閉症だった私へ』には、その一部始終が描かれている。