滝川 一廣
ある新・新宗教の信徒が入信理由を次のように語るのを読んだ。彼女は国立大学の教育学部で障害児教育を専攻する学生だったが、障害児について深く思い悩んできた。一体どうしてこのような子どもたちが生まれてしまうのか。ボランティア活動をしても、大学で勉強を重ねても、その答えはみつからなかった。しかし、その教団の教義に触れたとき、その疑問が一挙に氷解するのを感じたという。すなわち、前生の悪行がカルマとなって現れたのが障害児なのだ、と―。
私は考え込んでしまった。心身の発達に遅れる障害児がなぜ生れるかは確かに大きな問題で、昔から様々な説明が試みられてきた。「前生の因縁」というのもそのひとつで、近代以前には珍しくもない説明であった。それを新・新宗教の教義でいまどき知って、しかもそれで目から鱗とは……。近代的な「知」が絶対ではないとしても、歴史を顧みるかぎり、「前生の悪行」式の因果応報論や宿命論の呪縛から病者や障害者を解き放ったのは近代知の大切な成果ではなかっただろうか。
今日、終末論的宗教が台頭してきた背景には、「人類の歴史は進歩の歴史」といった近代主義的な進歩史観のゆきづまりがある。しかし、だからといって、歴史への無邪気なまでの無知の現われとしか思えない「知の逆戻り」も果たしてどんなものか。
しかし、この障害児理解を非科学的とか迷蒙とか敢えて一蹴はすまい。彼女がなにを真剣に悩んだかは、わかるからである。現代科学は障害児の個別的な「原因」をかなりのところまで説明できる。たとえば、この子はダウン症候群だったからだ、とか。しかしながら、なぜこの子はダウン症候群であらねばならなかったのか、染色体異常があったからだ、ではなぜ染色体に異常があったのか、染色体が作られる段階でかくかくの現象が生じたためである、ではなぜその現象が生じたのか……と根問いを続ければ、どこかで「偶然の巡り合わせ」としか言えぬところに行き着かざるをえない。一方、全体としてとらえるなら、知能発達には(背丈などと同様)おのずと個体差があり、それは統計学的に正規分布をなしている。従って理論的にいえば、一定以上知能発達の遅れる者はある確率で自然に生じるのであって、その意味でなんら特殊な異常現象ではない。1〜2%の確率で必ずだれかが発達の遅れをひきうけ、だれがそのカードを引くかはやはり確率論的な「偶然」に過ぎない。染色体異常をはじめ現在知られる様々な「原因」は、いわばカードを引きあてる確率を高める因子と考えればよい。
大学で専攻した彼女にこうした知識が皆無だったとは考えにくい。彼女がぶつかったのは、ほかのだれでもなくなぜこの子なのか?の問いだったと想像できる。障害児の親が「この子ばかりがなぜ!」と思わず叫ばずにいられない、その「なぜ」である。この問いを前に、この子らは偶然カードを引き当てただけでは納得できず、ひとりひとりを障害に結び合わす「必然」の糸を求めて思い悩み続けてきたのだと思う。
「すべて偶然」という思想には人間は安住できない。ものごとには必ずなんらかの理由や因果関係があるはずだという観点から、つまり「意味」から世界をとらえるのが人間の心性で、近代以降の自然科学こそ、まさにそれを方法的に突きつめたものである。けれども、障害児の原因で述べたごとく、科学も先端では必ず「偶然」にぶつかる。どこから先は「偶然」かを見極める学こそが「科学」だと言いたいくらいである。しかし、心身障害のような不幸な事態が偶然であってよいものか、きっと必然性が潜んでいるはずだの強い思いが彼女を放さなかった。そして、その教義に出会ったとき、一気に霧が晴れる思いを得たのだろう。入信は了解できる。
けれども、と私は思う。「偶然」のない世界、ものごとに必ず理由や意味がある世界は、けだし空恐ろしい世界ではないか。たとえば分裂病の急性期に体験する危機的世界がそれである。不確実な偶然に囲まれていることのうちにこそ、私たちの精神の自由も可能性も豊かさもはらまれていると思う。むろん、その一方、偶然は大きな不公平もはらみうるゆえに、それをどう解決するかが私たちの大きな課題となる。彼女がぶつかったのも、実はそれである。だが、それへのやっと見つけた答えが「前生の悪行」というのでは。