滝川一廣 講師紹介


掲載紙:熊本日日新聞
「論壇」欄
(1995/10/08)

自由と人権のジレンマ 時事論(4)

滝川 一廣

  失踪した弁護士一家の遺体が元教団幹部の自供どおりに発見されるにおよび、終始ぬれぎぬを主張してきた教祖・教団側の言い分はほぼ崩れたといえようか。これとともにサリン事件に関する疑いも、様々な状況証拠とも合わせて、いっそう濃厚さを増した。とはいえ、裁判で証拠と証言がきちんと公開され、その真偽や妥当性が十分検討されるまでは容疑はあくまで容疑にとどまるという節度ある報道や言論の姿勢を、松本サリン事件で第一通報者をいかに扱ったかへの反省ともども、私たちは忘れるべきではないだろう。

  一連の事件は大きな難問を私たちに投げ掛けたと思う。たとえば弁護士失踪事件で、なぜ警察当局はもっと迅速かつ積極的な強制捜査に踏み切らなかったのか、そうしていさえすれば……の批判の声が高い。確かにそう悔やむのが人情というものであろう。しかし、これは結果論かもしれない。心証や幾通りにも解釈可能なわずかの手掛かりだけから容易に強制捜査が行なわれるのが通例になれば、私たちの自由や人権の上に由々しいかげを落としかねぬ事態も起きうるだろう。それでもよいとの前提がないかぎり、失踪事件発生当初での強制捜査はむりだったのではないかと顧みる必要もある。

  殺害された弁護士をはじめ教団追及に心血を注いだその同僚弁護士らは「人権重視」の理念的立場にたつ法律家たちだったと思う。だからこそ教団のやり方とは鋭く対立せざるをえなかったわけだが、一方でその同じ理念からは、警察の強制捜査など公権力の行使には一般に慎重さを強く求める立場でもあったはずにちがいない。その理念的な立場と、みずからが当事者となったこの事件への当局の「及び腰」もしくは「慎重さ」への歯がゆさや苛立ちとの間で大きなジレンマに出会ったかもしれない。テレビにしばしば引っ張りだされる弁護士らが、教祖・教団への怒りは怒りとして、それよりもこのあたりの機微についていつか深く語ってくれたらと思う。

  地下鉄サリン事件のあと、警察の姿勢は一転する。教団本部や道場への物々しい大規模な強制捜査にとどまらず、これまでの慎重さとはうってかわって、強引ともいえる「微罪逮捕」や「別件逮捕」が多数の信徒に対して矢継ぎ早に行なわれた。一部の幹部を除いて、おそらく大部分は起訴もされずに釈放されたことではあろう。しかし、これら個々の信徒が、今回の逮捕は行き過ぎで個人への人権侵害だと訴えたら、この件に関しては先の弁護士らはどんな法的見解をおおやけにするだろうか。これにも耳を傾けてみたい(どこかですでに発言されているだろうか)。

  いや本当は弁護士らがというより、私たち全体がいま述べた大きなジレンマにぶつかったのでなかろうか。自由主義にたつ法治国家の理念的原則として、個人の人権も思想信条に基づく結社活動の自由も最大限尊重されねばならない。そこへの公権力の介入は十分な根拠と慎重な手続きをまって初めて許されるべきで、ときにその制約が「歯がゆさ」をもたらす事態もあるにせよ、この原則を崩し去れば私たちは警察国家や専制国家への歯止めのひとつを失うことになる。この観点からは、強制捜査をたやすく求めることも微罪逮捕・別件逮捕を看過することも、実ははなはだ危険な要素をはらむといわざるをえないだろう。

  しかし一方、今回のごとく市民が無差別テロにさらされた危機状況に対して、ではどう対処すればよかっただろうか。また、可能性は乏しかったにせよ、仮にも教祖の夢想どおり教団が国家権力を掌中にしたとしたら、それこそ自由も人権もない惨たる社会が実現しただろうことは想像に難くない。この観点からは、今回の捜査手法はやむをえぬ緊急措置とみなすべきかもしれないのである。

  このふたつの観点は二者択一不可能なものかもわからない。背後にあるのは「人権」とか「自由」とか社会理念の上では当然視されている前提が、現実の前では深刻なジレンマや自己矛盾やねじれを生むという問題である。この難問に対し、思想レベルではどう掘り下げてとらえなおすか、実務レベルではどんなルールを工夫すればよいのか。これらについての冷静な論議のほうが、教祖・教団へのひたすら正義の糾弾や煽情的なスキャンダル暴きよりも、これから私たちみずからが生活と社会を守っていくために、はるかに必要で大切な言論活動になると思う。


[前の文書に戻る] [次の文書に飛ぶ]