滝川 一廣
某TV局が報道番組にサブリミナルなカットを入れて批判を浴びた。批判は当然としても、それ以上に、なぜそんな行為に誘われたのか制作者の率直な動機を知りたいと思う。責任追及や処分よりも、その分析のほうが重要である。
映画館で上映中のフィルムに<コーラを飲もう>の文字フラッシュを反復挿入してみたところ売上が急増したという。意識にとまらぬ瞬間的映像によるメッセージが潜在意識に働きかけて観客にコーラを買わせたというのである。この実験が雑誌記事で報道され、サブリミナル効果の名を広めた。
しかし、この有名な実験は正式の報告が存在しないなど信憑性に疑いが残り、サブリミナル効果によるコントロールの可能性についても現在なお研究者の見解は分かれるようである。しかも、狭い意味の学術的対立にとどまらず、効果に否定的な研究者は肯定的な側から「大衆のパニックや不信感を恐れる為政者や広告資本の立場に立って事実を隠す者」だとされ、逆に否定的な側に言わせれば肯定的な研究者こそ「この効果を売り物にするサブリミナル産業のお先棒」というふうに、主題が主題のせいか、互いの見解を隠れた動機に基づくものとみなしあう傾向も見られる。 実験心理学は専門でなく以下は机上の談義だけれども、この効果の有無は地味な実験の積み重ねから解明されることが大切だろう。きっと専門家は地道に取り組んでいるにちがいない。まず、瞬間的な映像が識閾下で知覚されるかを調べるのが出発点だろう。たとえば、梅干を知覚したら唾液がでるよう条件反射をつけておいて、映画フィルムに梅干のカットを瞬間的に挟んで唾液分泌をみるなどの実験が考えられるかもしれない。これでサブリミナルな知覚がもし実証されたら、静止画像で梅干を見せた場合と比べて唾液分泌の程度を調べる。サブリミナルな知覚が、意識された知覚と同等もしくはそれ以上の反応をもたらすかどうかが重要だからである。
ただ、ここまでは生理的反応の水準で、財布の紐を緩めてコーラを買うなど意志を介する行動とには大きな隔たりがある。サブリミナルな知覚が意志行動をどこまで左右するか(しないか)こそが問題の焦点なのだが。この先は簡単でなく、サブリミナル効果の評価が分かれるは、これをあやまたず調べる実験の困難さのためではないかと推測する。潜在意識の作用として存在は疑いない催眠現象も、いつでもだれにも起きうるわけでなく特定の条件設定下ではじめて可能な現象である。したがってサブリミナル効果も、仮に存在しても、さまざまな条件や要因や個人差に左右されるデリケートな効果であるまいか。はっきり取り出すのは難しいにちがいない。
むろん、以上は非専門家の憶測に過ぎない。それより、ここで考えたいのは心のコントロールへの現代人の強い関心である。サブリミナル効果が大きな論議を呼ぶのも、この関心ゆえだろう。人々の抱く欲求や人と人との交流を対象とする第三次産業中心の社会では、心の扱いがたえずテーマとなってくる。私生活でも、人間関係の微妙な心の綾にいつも晒されるのが私たちの生活となっていまいか。 しかし、そうした生活の中で顧みれば、人間の心ほど思うにまかせぬものはない。他人の心は自由にならない。いや、他人の心だけだろうか。自分自身の心すら自分の思いどおりにならないのではないか。自分の心が自分がかくありたいと思うままにあってくれたら、どんなに心は安らぐだろう。だが、自分自身のものでありながら、自分の心はなぜか思うようにいかないのである。
自己開発セミナーから新・新宗教にいたるまで、意のままにならぬ自分の心という問題、それをどうコントロールするかの問題に鋭敏に応えてきたところがあり、それが現代人に吸引力をもったかと思われる。「解脱」を目指す修行など、まさにそれだろう。
もしかすると、現代文明が色々なものをコントロール可能にしてきた結果、ついに残されたものは自分たちの心になってきたのかもしれない。心をコントロールできたらという願望と(裏返しの)コントロールされたらの不安。その「マインドコントロール」ぶりが恐怖をもって語られる教団を報じた報道がサブリミナルカットを挿入する混迷的事態に、私たちが強いられている願望と不安のありようを見るべきなのだろうか。