滝川一廣 講師紹介


掲載紙:熊本日日新聞
「論壇」欄
(1995/06/11)

超能力と宗教 時事論(2)

滝川 一廣

  昔、探偵小説が大好きで、シャーロック・ホームズのシリーズと並んで耽読したものにチェスタトンのブラウン神父のシリーズがあった。凝った文体と思い切ったトリックと事件解明にあたって神父が繰りひろげる理屈がおもしろかった。チェスタトンはただの推理作家ではない、カソリック信仰の再生を目指した思想性の高い文学者で、ブラウン神父シリーズもそのようなバックボーンのもとに書かれた作品群だった―というような文学史的事実は、当時の探偵小説少年の関心外であったけれども、それでも「なるほど宗教(信仰)とはそういうものか」と感心したせいだろうか。今も印象深く思い出されるくだりがある。

  超能力による奇跡としか思われない事件が発生する。科学的無神論者を任じていた登場人物のひとりはそれを目のあたりにして「見るまでは決して信じなかったのに」と叫ぶ。以来、彼は神秘主義に傾倒する。いわば転向である。一方、同じものを目撃したブラウン神父は「見るまでは信じていたのに」と言う。「あなたは神に仕えながら奇跡を信じないのか」と問われると、「むろん私は奇跡を深く信じている。しかしまた、奇跡のなにたるかも知っているのだ」と神父は答えるのである。やがて事件は解明され、たんなるトリックだったとわかる。神父は言う、「この目で見ぬうちは信じないというのは、懐疑ではなく、すでに半ばの軽信である。なぜなら、見さえすれば信じるわけだから」。三十年以上も昔の読書で、正確にこうだったかはおぼつかない。が、大筋はちがってないと思う。さて、以下は私の敷衍である。

  「奇跡」「超能力」のたぐいは本当にあるのだろうか。もちろん、この目で見た、まさに経験したという人々はたくさんいる。しかし「まさにこの目で見た、まぎれもなく実体験した」といった体験の事実性と、その事実をどう理解するかの認識の真実性とは同じではない。まぎれもない体験的事実が、実は錯覚の場合も、トリックに引っ掛かっただけの場合も、精神医学でいう幻覚や妄想体験である場合もあるだろう。逆に、まさに奇跡に出会ったとしても、当人が錯覚かトリックだと思って取り合わねば、それまでだろう。奇跡(超能力)は私たちの経験的な理解や認識の枠組みを超えているからこそ奇跡(超能力)だとするなら、その性質上、「経験」に基づいてその存在の有無は問えないもののはずである。とすれば、結局、信じるか信じないかだけの問題になろうか。ただ、信じ方(ないし、信じない仕方)の構造に様々あって、問われるべきはその構造の中身かもしれない。

  超能力の存在を信じるにせよ信じないにせよ、次のようには思う。教祖が空中浮揚をしたとか水の上を歩いたなどの超能力は、確かに(事実なら)驚きに値する離れわざではあろう。しかし同時に、それ自体は常人に及ばぬ「技」(技術技能)の発揮というに過ぎないのであるまいか。オリンピック選手が百メートルを八秒台で走ったというの同じで、稀有な天稟や極限的な修練のほどを示すものではあれ、それがそのまま彼が常人を超えた高い精神性の持ち主やだれよりも真理を知る者である証しとなるわけではない。仮にその「技」が自然法則を超えていたとしても、この事情は少しもかわらない。いかに超絶的であろうとあくまでも技は技、思想は思想。超能力にトリックか否かの決着のつかない議論がつきまとうのは、所詮、技術技能の領域だからだと思う。

  主イエスが水上を歩いたとしても、そんな事柄はイエスの教え(思想)の正しさや深遠さを証しはしない。神の子たる証明にもならない(悪魔の子でも、そのくらいの技はやってのけるだろう)。実際、キリスト教はそんな技ゆえに古代世界を大きく変えてしまうまでの力をもったわけではなかった。超能力のたぐいを売り(?)にする宗教は、このあたりに錯誤がありそうで、宗教としてあまり高く買えない気がする。

  ブラウン神父(あるいはチェスタトン)は科学主義と神秘主義とを一枚の歪んだ硬貨の裏表として共にしりぞけて、真実への謙虚さ(神への敬虔さ)がもたらす理知や合理的な思惟といったものを主張していたように思う。現代の宗教界でのブラウン神父評価は知らない。しかし、今日の宗教状況に絡めて考えると、興味深い主張かもしれない。


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