滝川一廣 講師紹介


掲載紙:熊本日日新聞
「論壇」欄
(1995/05/14)

文明不安と自然回復の理念 ―ハイジから新・新宗教まで― 時事論(1)

滝川 一廣

  少年時代にヨハンナ・スピリの『ハイジ』(一八八一)を愛読した。児童文学の古典で、ストーリーは皆ご存じだろう。モミの木の葉ずれや干し草の匂いやアルプスの夕映えなど、美しく懐かしい自然描写が好きだった。

  産業革命を経て近代化が急速に進行する中で、文明社会が一面でもたらすストレスや不安から、牧歌的な自然への憧憬や、自然こそが真の人間性や健康性を回復させるという理念が生まれたと考えられる。この物語の主題がそれで、ハイジの名もギリシャ神話の健康の女神(Hygeia)からきているという。

  それと同時に『ハイジ』はキリスト教信仰の書でもあった。都会の少女クララがアルプスの自然によって健康を回復するとともに、神に背を向けていたアルム爺さんがハイジの力で信仰を取り戻す物語である。神は祈る者を必ず見守り、幸福へと深く導きはからってくれる―この素朴な信仰と美しい大自然の懐とに抱かれた調和的世界が『ハイジ』の世界であった。

  みずから創り出し発展させてきた文明への一種の不安と不信。自分たちは文明(人工)に蝕まれているのではないかの観念に、近代以降、人々は多かれ少なかれ悩まされるようになった。『ハイジ』は、一九世紀末、そうした近代の始まりを背景に、自然回復の理念と敬虔素朴な信仰をうたったのである。

  もちろん、かといって文明の発展を押し止められるわけではない。二〇世紀末の私たちはいっそう高度で豊かな文明を享受している。反面、文明に蝕まれる不安も募っているかもしれない。エコロジカルな自然保護運動や反核運動、自然食品やヨガなどの健康法ブーム、超能力・超常現象(科学ではとらえきれない自然の秘めた神秘的諸力)への強い関心など、いずれもかつて『ハイジ』にうたわれた自然回復の理念が現代的にかたちを変えたものだと思う。

  『ハイジ』の世界は自然の風光への信頼と憧憬に支えられていた。しかし、現代ではそうした牧歌はリアリティを失っている。今やアルプスといえ現代文明に浸された観光地だからである。代わりに、現代における自然回復の理念は、森林破壊、核の冬、オゾン層破壊、大気汚染、人工物質に侵され癌化する肉体……等々の破滅や衰弱のイメージと表裏を一体にしたものとなった。そしてこれらのイメージが人類滅亡の観念にまで突きつめられたものが、「終末論」にほかならない。

  文明の不安が、現代人に超越性(神)への関心をあらためて呼び起こしてもふしぎはない。しかし、『ハイジ』的な信仰のかたちは、その牧歌と同様、もはや救済力を失っている。古典的な辛苦は現代社会では一般性をなくしたためである。便利で豊かな文明生活が所与のものとなり、これという不自由なく日々を送りながら、その底に漂う漠とした不全感や衰弱感をこそ癒してくれるもの、何か今の自分を超える活力を与えてくれるもの―そのような超越性が希求されるのが現代である。 今日の新・新宗教の多くは、この希求に応えるものとして急速に伸びてきたのだろう。現在、騒ぎの渦中にある某教団も、まさにその典型かと思われる。ヨガの健康道場から出発し、超能力へ強く傾斜し、やがて世界滅亡からの救済をめざす教団へという展開は、現代的な自然回復の理念や超越性希求が進む方向をよく示していないだろうか。大洪水や神の雷が人類を滅ぼすのではない。核兵器、毒ガス・細菌兵器、レーザー光線……教団の流布するハイテクによる「世界終末」のイメージは、現代人の強迫観念ともいえる「文明による衰弱と滅亡」の究極イメージなのである。その上、まことに象徴的にも、教祖自身の肉体も「癌(?)」に侵されているという。

  教団に理工系の俊秀が多いのは驚くにあたらない。科学文明の担い手こそ、一方でそれへの不安を抱く者でもありうる。理工系の学者から反核運動家やエコロジストが出るのと同じだろう。僅かな契機の差で、あるいは彼らもそちらにいっていたかもしれない。顧問弁護士は公害訴訟のキャリアを持っている。 ただ、私は終末論的な文明観・世界観にはくみさない。文明への批判的視線は必要だけれど、それが肥大した危機意識や反文明や呪詛に近づいたとき、どこかに認識のくるいや倒錯が生じる。その倒錯の有様を今回の教団にみる思いがする。まだ全貌さだかならぬ現時点で、私に言えるのはここまでだろう。


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