櫻田淳 講師紹介


「樹が陣営」17号(1997年10月)
より抜粋のうえ改稿

<橋>を架ける思想の力

佐藤 幹夫

  ところでもう一人、櫻田淳という批評家が『福祉の呪縛』という著作と共に登場した。著作を論じる際、必要以上に書き手の紹介に筆を走らせるのは、当の思想や著作に対して失礼ではないかという思いがあるが、やはり著者櫻田淳の紹介を欠かすことはできない。著者は出生時の脳性小児マヒにより身体に障害を持ち、進学を拒否され続けながらも養護学校の中学部から普通高校へ、そして北海道大、東大の大学院へと進み、現在、ある代議士の政策スタッフの一人となっている。
  著作には櫻田氏の歩みが簡単に記されており、それを一読するかぎり、彼がそこで望んだことはきわめてまっとうである。身体が不自由である分、頭脳で勝負していくしかないと思い決め、そのために十分な教育を受けたいと彼は望んだ。むろんその願いを実現するためには、私などには測り知ることのできない努力を強いられなくてはならなかっただろう。そして彼が社会に出て何事かをなそうと思ったときにかならずぶち当たるバリアーが「前例がない」という一言だったという。
  それにしても、何が「前例がない」のだろうか。ひとことで言うならば、ハンディを持つ者が社会において「障害者」としてではなく、「障害者/健常者」という言葉を必要としない存在として生きていくこと、それを当然のこととして認めることが、これまで前例がなかったのである。心身の諸器官に何らかの損傷を負うことと、「障害者」であると社会から刻印づけられることの間には、ある隔たりがある。
  身体に何らかの能力を欠いていることで、そのまま「障害者」となるわけではない。「障害者」とは単に機能的能力的にハンディをもつだけの存在なのではなく、その存在一般が社会的に不利益を被っていると見なされ、絶対的弱者として庇護されなければならないという社会的視線が貫かれた存在、そのような視線のもとで、社会との関係が絶対化された存在のことである。その絶対化された関係に異義申し立てをしたとたん、「前例がない」という言葉が、分厚い壁として立ちふさがるのである。
  櫻田氏は自身のハンディ引き受けつつ、障害者とか健常者などという区分けが意味をなさない場所で生きようと望んだ。しかし社会の制度や私たちの通念はそれを認めなかった。そして結局は体のよい厄介払いを食わせてきた。それがこれまでの実情であったろう。それでも粘り強く自身の主張を認めさせようとしてきたし、現在もその闘いを続けている。これが、櫻田淳という存在の足跡である。
  ハンディをことさら優位に立たせようとする主張はこれまでも見られた。いや、人権や平等という誰にも反対できない理念の元で、いまやある趨勢をかたち作っている。そこでは障害を否定しないという出発点が、それ自体は正当な認識であるにもかかわらず、障害の肯定から一気に賛美へと飛躍してしまう。「障害を持つからこそ素晴らしい…」。しかしこの理念では、優位者と劣位者という対立構造そのものは変わらないし、本当に障害を持つことが素晴らしいのか、それはどこか転倒しているのではないか、という素朴でまっとうな疑念をもつ者に対して、そうした疑念を抱くこと自体が差別であるという抑圧になる。
  むろん櫻田氏が示している理念は、こうしたものとは無縁である。氏は書く。
《しかし、率直にいえば、障害を持つ人々は、自らの障害に折り合いを付けながら、生きている。年老いた人々もまた、自らの老いを適切に受け容れながら、生きているということであろう。そうであるならば、障害を持とうと齢を重ねようと、それに関わらず社会の中で活動していけるための仕組みこそが大事になるはずである。この仕組みを作る努力は、「福祉」の呪縛の下、真面目に行なわれてこなかった。》
(『産経新聞』平成9年2月18日)
  櫻田氏によれば、弱者として庇護されるという名目で、社会一般から切り離されること。その中でのみ生きざるを得ないこと。それが、これまで「福祉」という名のもとで行なわれてきた。そしてその結果、競争の機会均等と選択の自由という、市民社会のもとで最低限与えられて然るべきものさえ与えられてこなかったのであり、福祉(善意)=革新、自助努力(効率)=保守という分厚いバリアの中でのみ語られてきた、というのが、『福祉の呪縛』における著者の意義申し立てである。
  福祉は本当に佳きものか。櫻田はそう問う。そして「自助努力支援型政策の構想」というサブタイトルの通り、障害をもつ人たちの自助努力のために社会がどのような支援をなすべきかについて具体的施策を提示していく。自助努力のための支援、そしてバリアフリー、これは従来の福祉政策とは区別される、と繰り返す。つまり櫻田氏は、介護され、保護されるための支援ではなく、自助努力のために社会にある物理的、制度的、そして心理的バリアをなくすよう支援してほしいと願う。選択することの自由と、競争するための機会の平等を求めることは、人として当然の要求のはずである、とする彼の主張は、多分まだまだ少数意見に違いない。
  むろん私は、櫻田氏のようには生きられない多くの人々を知っている。就労の場はおろか、生活の場さえ不安を伴う彼らにとって、福祉のいっそうの充実こそ望まれることではないか、という反論があることも承知している。あるいはまた櫻田氏の示す施策は、平成七年度の『障害者白書』において示されたバリアフリーの提案を越えるものではない、という意見があることも知っている。
  しかし、福祉=善という思考パターンの呪縛から解き放つ試みが、従来の福祉や人権問題や反差別という固定化された文脈を克服し、私たち多数の側の生に直接訴えてくる課題として語ろうとしていることの意義を、まずは認めたいと思うのだ。そのことを理解することによって、私たちはハンディを持つ人々の問題が「障害者問題」ではなく、人間という存在が抱えもつ或る普遍的な課題である、という地平に導かれていく。
  これもまた橋を架ける思想である。しかもこの橋は少数の、これまで隔てられ続けてきた側から架けられた橋であり、それは画期的なことではないか、というのが『福祉の呪縛』を一読しての私の判断である。

  ここまで村瀬学と櫻田淳という、二人の批評家の著作を見てきたのだが、ある対照が際立っていることにすでに気付かれたことと思う(村瀬氏への言及部分は割愛しています――佐藤註)。村瀬がきわめて平易に、ゆっくりと語りかけるような文体であることに比べ、櫻田氏は断定的で、訴えることにやや性急であるように見える。眼差しの高さも、村瀬氏は切り込みの糸口をできるだけ低いところにおこうとしているが、この点でも櫻田氏は対照をなしている。むろんこんな比較をすることで、彼を批判しようとしているのではない。
  村瀬氏は多数者の側であり、櫻田氏は少数者の側である、このことがもたらす相違であるとひとまずは言える。つまり村瀬氏の思想は、多数者が少数の側に橋を架けようとする思想の一つ達成を示している。櫻田氏のほうは少数の側であることによって、意義申し立てという文体を余儀なくされながらも、その内実が、多数の側に対する告発的思考を乗り超えたものとして、やはりまた一つの到達点を示している。少数の側からの声が、このように開かれた理路を示すことは、率直に言って、希有なことだと言わなければならないのだ。
  繰り返すが、多数者は少数者を賛美し、うたいあげる(灰谷健次郎!)、あるいは自主規制というかたちで見ぬふりをする。そして少数者は多数者を弾劾し、告発する。障害を持つ存在については、これまでそうした図式のなかで語られることが過半だったのである。それでは橋は架からない。ますます少数者(の問題)は切り離され、囲いこまれていくばかりだ。逆に言うならば、この図式を超え、両者の生にとって直接響くように(あるいはその契機となるように)語ることは思いのほか困難な営為だといえるのである。
  ところで、私たちはすでに、「在日韓国人二世」という出自から思想的な出発をとげ、「差別」という課題に対して新しい曲面を開いてくれた竹田青嗣という批評家を持っている。竹田氏の差別論は、その欲望論と両輪のようにある。竹田氏の言うところをきわめて雑駁にまとめてみるならば、次のようになるだろうか。人間は「私とは何者であるか、何者であり得るか」ということを了解せずにはおかない欲望を持ち、その欲望が生を根拠づける。つまり自己中心的な存在であり、人生とは欲望のゲームである。
  よって一方の側が他者に対して、善であれ、正しくあれ(差別はよくない、平等であるべきだ)と要請するだけでは、他者の欲望を否定し、ルサンチマンを生み出していくほかはない。ここにすでに差別が発生する根拠がある。従って他者(の欲望)の了解と、善きこと正しいこととが相互に了解されるための可能性は、どう条件づけられるか、そう問うべきだとされる。つまり差別はよくないと主張するだけはなく、差別について、あるいは差別の克服という課題について、両者の間でどのような了解が可能となるか、そう問うべきだというのが竹田差別論である。それが私の受け取りである。この基本原理にそって、差別や在日についての具体的な発言を竹田氏は続けてきた。
  繰り返しになるが、櫻田氏の主張も、差別しないでくれという告発ではなく、自身がよりよく生きるために、このような条件を必要としているという理路の提示である。つまり私たちがその主張するところをよく聞くならば、それが人として、よりよい生を望むこと、プライドを持って生きることという、きわめてまっとうなものであることを了解するのである。たぶん多くの人が、そう願うことなどきわめて当然のことだと感じるに違いない。しかしその当然のことを妨げてきたのが「福祉という呪縛」である。それを知る限りにおいて視線の変更を私たちは受け取り、新しい了解の通路が切り開かれたと感じるのである。
  竹田氏は、思想とは人間の生の意識が持つ相互了解の欲望に訴えて、「違った信念の間に、新しい了解の通路をつけるような新しい言葉をつなぐことだ。/思想の本性とはそういうものだ。」と書く(『自分を知るための哲学入門』)。これは思想というものについての素朴ではあるが、きわめて力強い定義である。
『福祉の呪縛』は、思想が知的なこけおどしやレトリックの応酬などによって測られるのではなく、まさに生きることそのものの実質なかでこそ力を発揮するのだという、その本性の姿をよく示し得ており、そのことによって私たちは「相互了解の可能性」(竹田氏同著)を受け取っているのである。


[前の文書に戻る] [次の文書に飛ぶ]