櫻田 淳
昨日付の本欄において、あらためて、私は、沖縄から台湾を経て旧「南洋」諸国に至る「海上の道」が、今世紀の我が国の「生命線」になるであろうと指摘した。そして、私は、その「生命線」の「扇の要」として、台湾の占める位置が殊の外、重いものになると論じた。台湾では、昨年の総統選挙や先刻の立法院選挙の結果、行政府でも立法府でも国民党が主役の座を降りた。台湾は、今や完全に、政治制度と経済制度の双方において、我が国を含む自由主義諸国と同等の存在になったわけである。とすれば、このような国家が、国際社会の中で正当な待遇を与えられていない現状は、率直にいえば奇異である。私は、中国と台湾との間に無用な緊張が走る事態を望まないけれども、「自由主義国家・台湾」の現下の孤立が放置されることの不合理は、幾度でも強調することにする。現下、われわれとって、台湾の立場を考えることは、われわれ自身の奉じる「自由」の価値の意味を問うことでもあるのである。
それでは、われわれは、今後、どのように台湾を遇すればよいのであろうか。振り返れば、昨年四月、我が国は、太平洋に点在する十六のPIF(Pacific islands Forum、太平洋島嶼国フォーラム)加盟諸国・地域の首脳を東京に招き、「太平洋・島サミット」を開催した。目下、太平洋島嶼諸国の直面する課題は、海賊などへの対処、海上自由航行路の保全といったものに始まり、情報通信を軸にした産業の振興、人材の養成、海洋研究の推進、海洋資源の保護や管理、地球温暖化に伴う海面上昇への対処、あるいは海洋汚染の防止に至るまで、多岐に渉っている。私の当座の提案は、この「太平洋・島サミット」に際して、早ければ次回会合から、台湾をPIF加盟国に準じる存在として招待することである。台湾もまた、太平洋島嶼国に他ならないのであるであるから、我が国やPIF加盟諸国とは共通の難題に直面し、その難題への対処に取り組まざるを得ない。その点、PIF加盟諸国の大勢と比べれば、人口や経済規模において明らかに相応の実力を備えているはずの台湾が、これらの難題への取り組みに際して排除されているのは、我が国の国益のみならず、広く太平洋島嶼諸国の共同利益にも背馳する。われわれは、このような不利益の意味を適正に顧慮すべきであろう。
無論、このような私の提案には、様々な異論が示されよう。多分、中国共産党政府は、台湾が国際社会の中で「国家」として遇される一切の試みには強硬に反対するだろうし、中国政府の不興を買う一切の振る舞いを避ける習性が身に付いた感のある我が国政府もまた、敢えて火中の栗を拾うかのような対応には踏み切らないかもしれない。
しかし、島嶼国ならざる中国には、我が国や台湾、あるいはPIF加盟諸国のような島嶼国が共通して直面する様々な課題に対して責任を負うことは、本来ならば期待すべくもない。「責任を負えなければ、発言はできない」という人間の社会の公準に基づくならば、島嶼国の直面する難題に責任を負えない中国には、島嶼国の難題に容喙することはできない。われわれにとっては、台湾を「太平洋・島サミット」の討議の場に迎え入れても、然程の支障も生じないと見るべきなのではなかろうか。従来、我が国は、台湾との関係を中国との関係との従属変数として把握してきた。従って、我が国は、対中関係の文脈から離れたところで、どのような待遇を台湾それ自体に与えるかということについて、明確な方針を持たなかった。しかし、そのような台湾への遇し方で済まされる時代は、既に去っているのではないか。現在の台湾が、われわれにとって、「昔日の植民地」という追憶の対象というよりは、「自由主義国家」や「島嶼国家」といった国柄の相似に基づく協力の対象としての相貌を色濃くしているのであれば、それは、なおさらのことである。
結局のところは、われわれにとって、どのように台湾を遇するかを考えることは、「過去の我が国が、どのような国家であったか」を顧みるだけではなく、「今後の我が国が、どのような国家であろうとしているか」を構想する縁でもある。われわれは、台湾を台湾として遇する論理を持たなければならないのである。