櫻田淳 講師紹介


産経新聞に掲載

初めて訪れた台湾で考えたこと・上

櫻田 淳

  去る十一月二十八日から十二月二日までの四日に渉り、私は、初めて台湾の地を踏んだ。台湾立法院選挙・県市長選挙の投票日に合わせて金美齢女史が企画した「日本人百名訪問団」の中に混じって、台湾の選挙を観戦しようというのが、訪問の趣旨であった。選挙の結果は、既にメディアによって伝えられているので、このことについては、もはや多言を要すまい。戦後、久しく、台湾を支配してきた国民党は、遂に立法院第一党の座を民進党に明け渡した。李登輝前総統による総統直接選挙の実施、民進党・陳水扁候補の総統選出に続き、この立法院選挙での民進党の第一党躍進は、確かに、「国民党の優位」という一時代の終焉を画することになるのであろう。国民党寄りと伝えられる地元紙『聯合報』ですらも、「今後、民進党が主導権を確保した上での国民党との提携が模索される」という趣旨の観測記事を載せていた。

  さて、台湾滞在中、私が強い印象を受けたのは、「台北二二八記念館」の訪問であった。この記念館が扱っている「二二八事件」は、久しい間、台湾現代史上の「暗黒面」とされ、その顛末は、一九八九年ヴェネツィア映画祭でグランプリを受賞した侯孝賢監督の傑作『悲情城市』によって、我が国でも知られるところとなった。一九四七年二月二十七日、闇煙草売りの女性に対する官憲の暴行は、国民党政府に対する本省人の反抗を激化させ、国民党政府は、その反抗を武力で鎮圧した。この事件では、台湾全土で一万名以上の人々が殺害され、少なくとも三万名に上る人々が死傷した。記念館には、事件で落命した人々の肖像が掲げられ、その経歴をみていると、「東京帝国大学法学部卒業」、「慶應義塾大学文学部卒業」といった字句が並ぶ。これらの人々は、当時の日本でも「選良」だった人々であるけれども、反抗運動を煽ったとされ徹底的に処断されたわけである。つまり、国民党政府は、「日本統治時代の人的資産」を潰すところから、台湾統治を始めたともいえる。

  無論、このことは、過去半世紀の歳月が、国民党とともに大陸から渡来し外省人と呼ばれた人々にとっても、無条件の幸福を意味したわけでもない。これらの人々は、台湾社会の中では、どことなく「浮き上がった存在」として孤立感を味わいながら日々を過ごさなければならなかったからである。侯孝賢監督や楊徳昌監督のような外省人二世監督の作品には、そうした「外省人の苦悩」が関わっている。台湾の人々は、従来、内にあっては「本省人と外省人の対立と和解」という難題に取り組みつつ、外にあっては大陸・中国の巨大な影と対峙し自らの独立を守ってきたのである。

  翻って、我が国では、過去半世紀の間、昔日の「同胞」であった本省人の立場は、余り顧みられることもなく、専ら国民党に傾斜した接触が続けられてきた。そして、一九七二年の断交以後、中国共産党政府の意向に過剰に配慮する余り、我が国は、台湾に対して冷淡な態度を取り続けてきた。たとえば、我が国は、総統時代の李登輝氏には、一九九四年の広島アジア大会、一九九五年のAPEC大阪会合、あるいは一九九七年の京都大学創立百周年式典に際して、門前払いを食らわせたし、今年四月に総統退任後の李氏が心臓病治療目的で来訪しようとした際にも、無意味な紛糾を来たした。しかし、先刻の立法院選挙の結果、「国民党の優位」の時代の終焉が明らかになった今、われわれは、対中配慮という文脈を離れて、「どのように台湾を遇するか」ということについて、見極めを新たにしてもよいであろう。

  因みに、私は、昨年二月、「新『南洋』戦略論」(加筆の上、拙書『国家への意志』所収)と題された論文を発表し、沖縄から台湾を経て昔日には「南洋」と呼ばれた国々へと向かう「海上の道」が、今後の我が国の対外戦略上の「生命線」になると論じた。そして、今、私は、その「生命線」の「扇の要」として、台湾が位置付けられるであろうと考えている。地政学的な位置の重要性、日本統治時代に端を発する縁の深さ、「自由や民主主義」の価値を体現した政治・経済制度といった諸々の条件は、われわれに対して、台湾の持つ重みを実感させる。今後、われわれが早々に行なうべきは、その台湾の重みを与件として、自前の対外政策の構想に着手することである。


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