櫻田淳 講師紹介


産経新聞に掲載したものを改稿

柳条湖から真珠湾へ 日独伊三国同盟締結の時 下

櫻田 淳

 日独伊三国同盟を巡る群像の中で最も際立った存在が、当時の外務大臣であった松岡洋右であるのは、疑いを容れない。三国同盟樹立に絡む松岡の軌跡は、人間における自負、誤算、あるいは失望を象徴的に描き出していて、誠に興味深い。

 「こんなはずではなかった…」。この言葉は、私が見る限り、最も人間的な感情が凝縮されたものである。人々は、何時も何らかの「意図」を伴って様々なことを行う。しかし、それは、必ずしも期待された「結果」を生むわけではない。普通、「意図」と「結果」は乖離するものであり、それ故にこそ、人々は「こんなはずではなかった…」と嘆くのである。

 松岡洋右は、日米開戦の報に接し、「三国同盟は僕一生の不覚であった」と慙愧の涙を流した。この言葉こそが、松岡にとっての「こんなはずではなかった…」である。松岡は、満州や中国を巡る問題に際して、対等な立場で米国と相対することを望んだ。三国同盟や日ソ中立条約の締結は、松岡にとっては、米国と対等な立場を確保するための方便に過ぎなかった。松岡は、ナチス・ドイツの人種主義には決して共感を持たなかったし、米国との対立を決定的にする政府部内の「南進」論には抵抗した。松岡自身の言葉によれば、「自分は米国と国交を調整することを終局の目的として奪闘した」のであった。

 少なくとも対米戦争を望んでいなかった松岡の「意図」が裏切られたのは、松岡自身が終始、「自分の経験」に縛られ続けたことに拠っている。松岡は、十代前半から二十歳過ぎに至る多感な青春期を米国オレゴン州で過ごし、苦学の末に大学を卒業した。十年近くに及んだ滞米経験によって、松岡が手にしたものは、「米国と付き合うには、断固とした態度を示すことが大事である」という教訓であった。帰国後、外務官僚、満鉄総裁を歴任した松岡は、その滞米経験や米国大学卒業の経歴によって、「米国を肌で知る存在」と称することができたし、そのことに自負を感じてもいた。そして、そのような自負と若き日の滞米経験に得られた教訓を現実の対外政策に投射させた結果が、日独伊三国同盟であり日ソ中立条約であったわけである。

 しかし、そのような松岡の姿勢には、「現場を知っている」という自負に裏打ちされた故の「視野の狭さ」があった。「力強さ」を尊重するのも、米国の国柄であるけれども、ナチス・ドイツのような体制を容認しない「道徳性」を持つのも、米国の国柄なのである。松岡の失敗は、若き日々の「自分の経験」に呪縛された結果、この米国の「道義性」の部分を直視することができず、日独伊三国にソ連を加えた四国の同盟によって米国に対峙するという「工学的な勢力均衡外交」に走ったことにある。米国の視点からは、我が国は、対独同盟樹立によって、「道徳的にいかがわしい存在」と化したし、そのことは、松岡の「意図」を実現する土壌を切り崩すものであったのである。私は、松岡が結局のところ、「自分の経験」を相対化するに足る広い意味での教養を持ち合わせていなかった人物であると解している。しかも、国際連盟脱退や三国同盟樹立に際して寄せられた国民の歓呼は、松岡を著しく誤解させたのではなかったか。第一級の教養人にして合理主義者であった昭和天皇が、松岡の姿勢に懐疑の眼差しを向けていたという挿話は、そうした松岡の限界を如実に物語っているのであろう。

 日独伊三国同盟樹立から六十余年の歳月が経った今、「米国と付き合うには、断固とした態度を示すことが大事である」という松岡の粗雑な対米認識は、我が国の思潮の中に脈々と受け継がれているのではないか。我が国が自律した存在になる ためには米国に抗わなければならないという議論は、その典型である。しかし、そのような議論こそ、現下の我が国が真っ先に克服すべきものなのではないか。


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