櫻田淳 講師紹介


産経新聞に掲載したものを改稿

柳条湖から真珠湾へ 日独伊三国同盟締結の時 上

櫻田 淳

  昭和十五年九月二十七日、ベルリンでは、来栖三郎駐独大使、ドイツのヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相、イタリアのガレアッツォ・チアノ外相の三国代表が参集し、日独伊三国同盟条約が調印された。現在の時点から振り返る限り、三国同盟の樹立は、戦前の我が国の犯した対外政策上の失敗の最たるものと評価されている。この同盟の樹立は、我が国が政治体制の上でも奉じる価値の上でもナチス・ドイツと同種の国家であるという印象を与えることになった。その印象は、対米交渉に決定的な支障を来すものであったし、戦後においては、戦前という時代の評価を行なう際に多くの人々の思考を呪縛することになった。本来は異なる戦争を行なっていたはずの我が国とドイツが折りに触れて比較されるのは、この同盟の残した負債に他ならない。

  しかし、私は、三国同盟の失敗の根源が、「その同盟によって何が出来るのか」という点を曖昧にさせていたことにあると考えている。振り返れば、近代以降、我が国は、日英同盟、日独伊三国同盟、あるいは日米同盟という三つの同盟を結んだ。そのような同盟の枠組の下、日露戦争時、英国は戦費調達の際の協力や情報の提供を我が国に対して行なったし、冷戦の期間中、米国は在日米軍や「核の傘」によって我が国に対する攻撃を抑止してきた。然るに、日独伊三国同盟の枠組で、我が国は、どのような便宜をドイツやイタリアに期待し、これらの国々から具体的に何が提供されたのであろうか。

  無論、日独伊三国同盟における「同盟の論理」は、割合、単純である。同盟樹立を推進する陸軍は、ドイツを組むことによってソ連を挟んで牽制するという思惑を持っていた。そして、東南アジアへの進出を念頭に置き「二正面作戦」を避ける意味から同盟樹立に難色を示した海軍も、結局のところはソ連と衝突しないという条件で同盟樹立を承諾した。また、当時の外交を仕切った松岡洋右は、日独伊三国同盟にソ連を引き込む形で「四国同盟」を形成し、米国に対峙しようという構想を持っていた。第二次世界大戦開戦直後、欧州戦線で破竹の勢いを続けていたドイツと組むことによって、ソ連を牽制し米国を牽制するというのが、我が国にとっての「同盟の論理」であったわけである。

  しかし、このような「同盟の論理」は、明らかに杜撰なものであった。特に米国を牽制するという論理は、「牽制して、然る後にどうするか」という構想に裏付けられなければ、単なる挑発にしかならない。そして、事実、三国同盟の樹立は、米国からは挑発と受け止められたのである。また、三国同盟の枠組で我が国がドイツやイタリアから具体的に何を提供されたのかということに関していえば、我が国が手に入れたのは。ほとんど皆無であった。欧州の戦場と太平洋の戦場とは余りにも遠く離れ過ぎていて、日独伊三国が具体的に何らかの便宜を互いに融通しようとしても、それは、思うに任せなかったであろう。結局、日独伊三国同盟は、対米関係を決定的に険悪化させたのみならず、ドイツやイタリアから実質的な便宜は何も提供されないという類の同盟に終わった。第二次世界大戦における「孤独な戦い」とは、一般に「バトル・オブ・ブリテン」のことを指すけれども、我が国の戦いもまた、「孤独な戦い」であったのである。

  「恒常的な同盟は存在せず、恒常的な国益が存在するのみである」。このパーマーストン卿の言葉は、「同盟」の本質を言い表したものとして不朽の重みを持っている。この言葉に照らし合わせれば、日独伊三国同盟樹立当時の我が国は、「国益の認定」においても「同盟の論理」においても、多分に恣意的、情緒的であった。そして、現在においても、われわれは、自らの「国益の認定」や「同盟の論理」を観念的にして情緒的に考えてはいないであろうか。


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