櫻田 淳
「米国同時多発自爆テロ事件」に関連して、米国主導の「近代主権国家」連合によるテロリズム封じ込めの動きが、加速している。事件の首魁とされる人物を隠匿しているらしいアフガニスタンのタリバン政権は、アラブ首長国連邦から外交関係断絶を突き付けられ、この流れには、サウディ・アラビアまでもが続いた。我が国でも、去る九月十九日夜、小泉純一郎総理は、「対米支援七項目声明」を発表した。これは、当座の対応を示したものとしては妥当である。この上は、臨時国家において必要な法整備を迅速にして着実に断行し、声明を画餅の類に終わらせないことが、大事であろう。
ところで、去る九月十五日付本欄において、私は、この自爆テロ事以降の我が国の対応が、「文明の所産」を護る営みに加わる意志を占っていると論じた。私は、最近、米国の歴史学者バーバラ・タックマンが著した『遠き鏡―凄惨なる十四世紀』という書を読んでいた。タックマンは、我が国では、『八月の砲声』、『愚行の世界史』、あるいは『誇り高き塔』といった書で知られている。十四世紀の欧州大陸では、中葉の黒死病の流行で人口の三分の一が失われた他、百年戦争の戦乱に伴う荒廃が続き、魔女狩りや異端審問が横行した。タックマンによれば、十四世紀とは、疫病、戦争、重税、略奪、悪政、暴動、そして教会内の分裂に彩られ、「奇怪にして大々的な災禍と逆境」に痛め付けられた歳月だったのである、そして、「凄惨なる十四世紀」の後で、人々は、「近代主権国家」という枠組を築き、その枠組を前提にして、戦争の作法、使節の待遇といった点で諸々の国際法規を築き上げてきた。それが、現在、政治、経済その他の領域で築かれている諸々の国際秩序の原型になっている。私が「文明の所産」の言葉で意味しようとするのは、そうした国際秩序の体系である。一般的にいえば、諸々の国々の多様な国益が互いに相克するのが、国際社会の現実であるけれども、そのような国益の相克もまた、「文明の所産」という名の「土俵」の上でこそ、行なわれるものである。テロリズムは、「土俵」を破壊するものであるが故に、その害悪は、一掃されなければならないのである。
無論、このような「文明の所産」が元来、西洋近代の歳月の中で醸成されたのであれば、その護持に我が国が執着すべき特段の理由はないという意見も、あるだろう。しかし、明治以降の我が国は、「文明の所産」を生真面目なまでに吸収し、尊重しようとしてきた。戦後、幾多のイスラム諸国もまた、国際連合その他の国際機構への加盟に際して、そのような「文明の所産」を受容したはずである。今や、「文明の所産」は、人類共通の資産である。その点、テロリズムの撲滅という「文明の所産」を護る営みを「文明の衝突」の文脈で理解しようという議論は、愚かの極みと断じざるを得ない。
然るに、目下、テロリスト集団に対する報復を主導しようとする米国への協力に関連して、我が国では、連立与党の一部からですらも、「何でも手掛ける訳にはいかない」という声が出始めているし、対米協力の中身が明らかになるにつれて、実質的な協力を渋る雰囲気が頭を擡げている。確かに、現下の対応が専ら米国の都合に付き合うという文脈で解されるならば、そのような逡巡は、反米気分に浸りたい人々からは納得されるのかもしれない。しかし、我が国が相対しているのは、米国の都合ではなく、テロリズムが起こした「文明の所産」の破壊である。本来は、「何でも手掛ける」というのが、我が国の示すべき姿勢ではないのか。「グローバリゼーション」の趨勢が「近代主権国家」の枠組に動揺を与えている昨今、テロリズムの跳梁を許せば、「凄惨なる十四世紀」が再来しないとも限らない。少なくとも、そのような感覚は、われわれには大事なのではないか。
その意味では、「近代主権国家」の範型とも呼ぶべき米国が、現下の対テロ撲滅作戦を当初、「無限の正義」、あるいは「究極の裁き」と名付けていたのは、誠に示唆深い。テロリズムの撲滅という「文明の所産」を護る営みにおいて、手加減といったものは、無用であるからである。それとも、そのような営みに際しても、われわれは、限定的にして抑制的な態度を平然と取るつもりなのであろうか。