橋爪大三郎 講師紹介


掲載紙:読売新聞 夕刊
(1997/2/24)

等身大のヒロイン 社会現象としての安室奈美恵

橋爪 大三郎

  いつもテレビや雑誌のグラビアで、姿をみることができる。誰もが名前を知っていて、若者たちのあこがれの的。そういう意味でなら、安室奈美恵さんは確かにアイドルだ。

  けれども安室さんは、ひと昔まえ、八〇年代のいわゆる「アイドル」たちと、まるで違っているように思われる。

  八〇年代のアイドルたちは、十代後半でデビュー、中高生(特に男子)の熱狂的な支持を集めた。当時のアイドル現象をひと口で言えば、「歌のなるべく下手な、可愛い女の子を見つけて、みんなで応援する」というゲームである。毎年のように数えきれないアイドル歌手が現れては、消えて行った。いまでも残っているのは、松田聖子さんら数人にすぎない。

  アイドル現象は、みんなで騒ぐのが目的だから、歌のうまい大人の歌手は敬遠される。アイドルは、舌足らずでたどたどしく話し、適当に歌詞やせりふを間違え、まるで自我などないかのようにニコニコしていなくてはならなかった。可愛いが、歌も下手だし、応援するしかないなあ。男の子たちはそう思うことで、女性に対する自分の優位をひそかに確認できた。こうして、ラジオを聴いたり、シングルを買ったりできる、暇と小銭(可処分所得)のある中高生たちが、日本の音楽文化の主役に踊り出た。

  そんなアイドルがつぎつぎ消費されていくなか、松田聖子さんは、男性よりも女性のファンを増やすことで、アイドルからの脱皮に成功した。彼女が仕事を続け、才能を開花させて大人の女性に成熟していく様子に、同年代の多くの女性が共感した。

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  安室さんの場合、まず、歌がうまく、スタイルがよく、踊りもうまい。そして、十代の女性ファンが多い。彼女のようになりたいと、アムラーと呼ばれる女性たちまで出現した。八〇年代のアイドルのように、わざとらしい振り付けや、子供っぽい服をあてがわれて、言いなりになったりしない。沖縄から上京、グループでデビューしたもののぱっとせず、それでもがんばってきた芯の強さ(そして、それを感じさせない愛くるしさ)が、安室さんのキャラクターである。

  安室さんの魅力と実力は、才能あふれるヒットメーカー・小室哲哉氏との出会いによって、いかんなく引き出された。小室氏が彼女のために作詞作曲した「CHACE THE CHANCE」は、アップテンポのダンスミュージックで、時代と感応する、駆け抜けるような焦燥感に満ちている。同時代の若い女性のリアルな心情を奔流のようなラップにのせてうたう安室さんは、ポスト・アイドル時代のヒロインである。同じく「BODY FEELS EXIT」も、シンセサイザーの打ち込みやサンプリングといったメカニックな技術と、安室さんのしなやかな身体とが調和した、小室/安室コンビの記念すべき第一作だった。一連のヒット作のコンセプトは、マイケル・ジャクソンの妹ジャネット・ジャクソンや、マドンナの系譜をひくものと言ってよかろう。

  安室ソングの聴かれ方も、八〇年代と違っていると思われる。

  九〇年代に、CDとカラオケ・ボックスが一般化した。安室さんのものを含め、シングルCDには必ずと言っていいほど、カラオケ・バージョンが付くようになった。新譜が発売になるや否や、中高生はお目当てのCDを買い求め、自宅でたっぷり練習してから友達とカラオケに出かけるのである。このため、ここ一、二年はミリオン・セラーが続出、ヒットチャートに異変が起きている。

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  小室氏が出演するTV番組「アサヤン」には、予選を勝ち抜いた女性たちが小室氏のヒットソングを熱唱するコーナーがある。これはかつての「スター誕生」を思わせる。しかし「スター誕生」が、平凡な素人娘が天界のスターへと駆けのぼるシンデレラ物語だったのに対し、「アサヤン」では当人も観客も、そのプロセス自体を楽しむ。スターも素人も対等で、区別がないのだ。

  「今夜もヒッパレ」にも、同様のことが言える。この番組は、歌手やTVタレントが、カラオケを楽しむ素人の真似をして騒ぐ、というもの。スター/それを崇拝するファン、という従来の上下関係をひっくり返した画期的な番組だ。視聴者から見れば、プロの歌手も自分たちと同じだなあ、となる。安室さんがこの番組にレギュラー出演しているのは象徴的だ。なぜなら、「安室さんは、才能があってかっこういい」×「安室さんもカラオケを楽しんでいる」→「カラオケを楽しむ自分たちも安室さんのように、才能があってかっこういい」という三段論法(?)を、人びとに信じさせる効果があるからである。

  バブルの八〇年代をはしゃいだ「ギャル」たちは後続の世代を「コギャル」と見下した。だが見下された彼女たちは、「安室奈美恵」という等身大の理想像を見つけだした。そこには、男性の言うなりになるのでなく、自立して自分の足で歩いていきたいという、彼女らの思いがこめられている。それはまだあいまいな夢かもしれないが、時代がそちらに流れていくのを押し止めることはできないようだ。


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