小谷野 敦
今度の著書『中庸、ときどきラディカル』は、フェミニズムやナショナリズムに関する文集である。で、その内容とも関係するのだが、書き落としたことがあるので、ここに書くことにする。もう四年ほど前のことだが、私は上野千鶴子・東大教授の恋愛論を、恋愛エリートの議論だと論じ、もてない男はどうしたらいいのか、と述べた。上野氏はこれに答えて「コミュニケーション・スキルをみがけ」と答えた。私はそれから三年ほど後に出した『恋愛の超克』(角川書店)で、人間には個人的な能力差というものがあるのであり、恋愛のできない者はがんばってもできないのだ、と書いたが、これがいわば上野氏への回答だったと言えるだろう。
その上野はこの四月に、語り下ろし『サヨナラ、学校化社会』(太郎次郎社)を上梓したのだが、『日経ウーマン』七月号の著者インタビューをたまたま見ていたら、「(上野は)こちらの抱いている『幻想』を『事実・真実』に基づいてバッサリと切る。・・・この本では、『誰でも頑張れば報われる』幻想にメスを入れる」と書いてあった。おや? ということは、上野は、個人の能力差を認めたのだろうか。そこで当該書を繙いてみた。なるほど、近代にはいって「誰でも頑張れば・・・」の思想が学校を作り、戦後日本でこの「タテマエ平等イデオロギー」が浸透し、「分不相応」な人まで進学しようとするようになった、というあたりは、その通りだ。大学院重点化のために、無責任な入学者受け入れが起きている、という上野の意見にも賛同できる。ところが、上野の話は飽くまで「学校」の成績、学歴、そして就職、といったところをぐるぐる回るだけで、「恋愛」のような非学校的な能力にも「タテマエ平等イデオロギー」が浸透している、という方向へは行かない。一冊の本だからあれこれ書いてはあるが、どうも「恋愛」の話題を避けているように思える。だいたい、「スキルをみがけ」とは、ずいぶん「学校的」な発想ではあるまいか。
それどころか、IQの個人差について述べるところで上野は、IQは育った家庭の経済力と相関する、と言い、階級は再生産される、と述べる。しかし、IQであろうが恋愛の能力であろうが、それを決定するのは「経済力」だけだろうか? 遺伝というのがあるではないか。ここからは、『中庸、ときどき・・・』でも述べたことだが、リチャード・ヘアンスタインの『IQと階級社会』と、その後の『ベル・カーヴ』は、IQと人種の相関を説いたというので、スティーヴン・ジェイ・グールドの『人間の測り間違い』などで非難されている。けれど、人種云々を別にすれば、遺伝がまったく個人の能力に関連しないなどということはいかなる意味でも証明されていない。もちろん現在の日本のような自由主義社会では、子供は遺伝上の親に育てられるのが普通だから、遺伝だろうが環境だろうが関係ないのだが、たとえば私などはそんなに裕福な家に育ったわけではないが、一浪したとはいえ東大に入れた。それは両親が、貧しさとか病気とかのために進学できなかったけれど、当人のIQは高かったからとも言えるので、そういうことはありうる。けれどこの「遺伝も環境も」という考え方が上野はよほど気に入らないらしく、というのは上野氏の父親は医者だから、「あんたが頭がいいのは遺伝や」と言われると腹がたつからなのだろうが、『サヨナラ・・・』で赤川学のような優れた社会学者が「優秀なオナニー研究者」と呼ばれながらも名前を挙げてもらえずにいるのは、上野編『構築主義とは何か』(勁草書房)で謀叛(?)を起こして遺伝に触れたからかしらん。東大助教授の佐藤俊樹も、その階層格差論で、頑なに遺伝を無視している。これじゃあ、「事実に基づいて幻想を切る」とは、言えないのだ。美男美女の子供は美男美女に産まれて恋愛でも勝者になる。冗談抜きで、こういう事実を直視できない人に学生指導をされては困る、と、教授の六分の一以下の給料で働く学者社会のオチコボレたる非常勤講師は異議を申し立てる。